「花」に描かれる春

音楽の授業にも登場する日本の音楽家・滝廉太郎

正月には彼の作曲した「春の海」をどこかしらで耳にするのではないでしょうか。

滝廉太郎作曲を手がけた代表的な唱歌には「荒城の月」や「箱根八里」などがありますが、「花」はそれに並ぶ有名な歌です。

「花」はもともと滝廉太郎による組歌『四季』の内、春を担う第1曲でした。

詩人・武島羽衣の言葉によって描かれる隅田川の春の情景、その出だしの歌詞は印象的ですね。

ただあまりに印象が強いせいでしょうか。曲名を「春」と勘違いしてしまうひとも少なくはないのは果たして春を担う歌として良いのか悪いのか、少々悩みどころではあるかもしれません。

それほどまでに印象強く、明治期の春の景色を切り取った「花」。

武島羽衣の書いた歌詞の意味を、そしてそこに描かれた明治の日本の風景を読み解いていきます。

隅田川の情景

昼の川辺

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき

出典: 花/作詞:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎

『春のよく晴れた穏やかな日の隅田川

川をのぼったりくだったりと漕艇に勤しむひとの漕ぐ櫂から滴が、桜の花びらのように散っていく

その眺めをどんなものに例えればいいだろう、いや例えることなどできない』

それほど複雑な古語表現ではありませんが、簡単に現代風に訳すとこんなところでしょうか。

ある晴れた日の隅田川の風景が描かれています。

「船人」「櫂」は渡し船のようなものではなく、漕艇という当時隅田川で盛んに行われたボート競技として捉えています。

「のぼりくだり」と時間のかかる動きを一口に表現したことや、櫂から滴が散っているところを切り取ったことにも歌詞の中の躍動感・スピード感は表れています。

のんびりと穏やかな時間、というよりは活気のある風景ですね。

春の陽気の中、そんな何気ない日常の景色を「どんなものにも例えることはできない」と評しています。

朝と夕方、それぞれの表情

見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳(あおやぎ)を

出典: 花/作詞:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎

『見てごらん、明け方おりた露に光を浴びてきらきらと輝き、私に何か訴えかけるような桜の木を

見てごらん、夕暮れ時に私に向かって枝を手のように伸ばし、招くようにしている青々と茂る柳の木を』

朝日を浴びた桜の木や夕日の中に佇む青柳の、風景としての美しさが表れています。

「見てごらん」と促す形にしましたが、「見ずや」は「見ないでいるのか」というのが直訳に近いと思います。

その光景の美しさは見ずにはいられない、と視線が吸い寄せられることに抗えない気持ちが表れている箇所でしょう。

それと同時に樹木を生きた人間のように表現することで、その木の持つ生命力が表現されています。

生命力に溢れた木が あたかも私に語りかけるかのように、また誘い招くかのように見えるだろうと訴えかけています。

その光景は、自分で自分に「ほら見なければ損だぞ」と促したくなるようなものだったのではないでしょうか。

月夜の景色

錦おりなす 長堤に
暮るればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき
ながめを何に たとうべき

出典: 花/作詞:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎

『錦の織物のように美しい長く続く土手に、日が暮れるとのぼる月が雲にかすんでいる。

このひとときも、ほんとうに値千金のものである。

この眺めをいったいどんなものに例えればいいだろうか、いや例えることなどできない。』

錦というと紅葉をイメージするひとも多いかと思いますが、色彩などが綺麗なものの例えに使われる言葉です。

「長堤」は長く続く土手のこと。

桜や青柳の立ち並ぶ土手は、まさに錦の織物のように美しい光景でしょう。

太陽が沈んでも空には月が昇り夜の闇を照らします。

うっすらとかかる雲の向こうにぼんやりと柔い光を放つおぼろの月は情趣あるものです。

柔らかな月の光に桜や青柳はどの程度、その色を見せてくれるのでしょう。

現代では夜桜というとライトアップされたもののイメージが強すぎて、月の光だけを受けた姿を想像することはなかなか難しいというのが残念なところです。

視覚で色の違いを見ることは困難で、影の濃淡でその色を想像した可能性もあります。

想像の中の風景と目の前に実際にある風景の狭間にいるのかもしれませんね。

「ながめを何に たとうべき」と2度繰り返し強調したことで、この隅田川の春の風景を何にも代えがたい素晴らしいものだと印象づけているのです。

春のうららの隅田川

滝廉太郎「花」の歌詞に込められた意味を紐解くの画像

朝・昼・夕・夜とそれぞれの時間帯における隅田川の光景が「花」の歌詞の中に描かれています。

昼は水上の人の営みに、朝と夕は川辺の木々と太陽に、夜は空に浮かぶ月と月が浮かび上がらせる空間にスポットを当てそれぞれの趣を魅力的に見せています。

それは武島羽衣や滝廉太郎の見ていた日常の光景です。

現代では隅田川の周辺で明治のひとたちが見た景色を見ることはもう叶わないでしょう。

いまの日本でも、もしかすると田舎まで赴いてみれば似たような風景を見ることはできるのかもしれませんが、それは似ているだけの別物です。

どちらが優れているとか劣っているとかそういうことではなく、その時代その場所の風景はその時代その場所でしか見ることができないということです。

今年はもう夏が迫っていますので来年、穏やかな陽気の春の日には「花」を口ずさみながら隅田川の川辺に赴いて、彼らが歌に残した明治の景色に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。