「サンタマリア」は聖母マリアのこと!

曲のタイトルとなっている「サンタマリア」は、イエスキリストの母マリアのことを指しています。
この聖母マリアへ尊敬の意味を込めた呼び名が「サンタマリア」となるわけです。
タイトルを見るだけでも美しく、清らかなイメージですよね。

掌をふたつ 重ねたあいだ
一枚の硝子で隔てられていた
ここは面会室 あなたと僕は
決してひとつになりあえないそのままで
話をしている

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「一枚の硝子で隔てられていた」中で手と手を合わせる、というのが
果たしてどのような状況なのでしょうか。
ガラス越しであることは読み取れますが、
「ここは面会室」という衝撃にも近い歌詞が出てきます。
一言にしても病院、警察など、様々な”面会室”がありますが、
それをどう捉えるかによっても世界が違ってきますよね。
ちなみに筆者としては牢獄のような印象を持ちました。

何にせよ、ひとつになれない「あなたと僕」という二人の人間が
隔てられて話している姿を思い浮かべることは、あまり難しくないですよね。

今呪いにかけられたままふたりで
いくつも嘘をついて歩いていくのだろうか
しとやかに重たい沈黙と優しさが
見開いた目と その目を繋いでいた
あなたは少し笑った

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”呪い”という言葉からは、大きな問題を抱えて取りつかれているかのような意味合いも含まれるのでしょうか。
また「いくつも嘘をついて」の部分からは、
誤魔化したり背を向けたりしていくのかもしれない、と恐れる気持ちもありますよね。
目と目を合わせて話している中で、何か事実を告白したような場面なのかもしれません。
しかし「あなたは笑った」ことから、二人の間には同じような意思や思いがあるのだとも予想ができます。

サンタマリア 何も言わないさ
惑うだけの言葉で満たすくらいならば
様々な幸せを砕いて 祈り疲れ
漸くあなたに 会えたのだから
一緒にいこう あの光の方へ
手をつなごう 意味なんか無くたって

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「サンタマリア」という単語を使うことで、優しく見守られているような感情が表されています。
何も言わずに心から祈ることで通じたり乗り越えられたりすることもあるのでしょう。
「漸く(ようやく)あなたに 会えたのだから」という一文から、
二人はそれまで簡単に会える環境ではなかったことが見えてきます。
そんな二人が一緒に進むことで、光=明るい未来へ行くことができる、といった期待も込められていますよね。
手をつないでも意味を感じない、何も生まれない、そう感じることもあるかもしれません。
それでも「手をつなごう」という意思が、何らかの決意を含んでいるようにも思えます。

いつか紺碧の 仙人掌が咲いて
一枚の硝子は崩れるだろうさ
信じようじゃないか どんな明日でも
重ねた手と手が触れ合うその日を
呪いが解けるのを

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二番の歌詞の始まりは、トゲをもつ仙人掌(サボテン)に対して
二人を隔てていた硝子が崩れやしないだろうかという願いが掛けられているかのようです。
そして、その願いが叶うことによって
様々な問題も解決に向かうであろう、という更なる期待が込められます。

今この間にあなたがいなくなったら
悲しさや恐ろしさも消えてしまうのだろうか
昏い午後の道端で探しまわった
呪いを解かす その小さなナイフを
汚れることのない歌を

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もしかすると、主人公が抱いている”悲しさ”や”恐ろしさ”は
「あなた」がいなくなってしまうと乗り越えるものではなくなってしまうのかもしれません。
そういった意味で「消えてしまうのだろうか」と不安になっているようにも感じ取れます。
”昏い(くらい)午後”という表現は、単純な明るさや時間帯を表しているというよりも
どちらかというと”悲しさ“や”恐ろしさ”が備わったものだという印象です。
自分に襲っている”呪い”を切り裂きたい、そして清らかでありたい、という
主人公の思いが描かれているようです。

サンタマリア 全て正しいさ
どんな日々も過去も未来も間違いさえも
その目には金色の朝日が 映り揺れる
点滴のように 涙を落とす
その瞳が いつだってあなたなら
落ち込んだ 泥濘の中だって

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見返りのない愛情をもつ「サンタマリア」は
どんなことであれ優しく受け入れ、認めてくれるのかもしれません。
やがて自分の全てを認められたと実感できた時に、その安心感から涙も溢れてくるでしょう。
“あなた”にそう体感できるチャンスがやってくるなら「落ち込んだ 泥濘(ぬかるみ)の中だって」、
「金色の朝日が」=明るい展望が見えてくるのですね。

ここは面会室 仙人掌は未だ咲かない 硝子は崩れない
そんな中で一本の蝋燭が 確かに灯り続ける
あなたを見つめ あなたに見つめられ
信じることを やめられないように

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この「面会室」は一番の冒頭部分と同じ面会室でしょうか。
それとも、はたまた違う「面会室」なのでしょうか。
期待を込めて願いを掛けていた「仙人掌(サボテン)は未だ咲かない」ために、
「硝子は崩れない」=願望も叶っておらず、二人は隔てられたままであるといえます。
”一本の蝋燭”というのは、主人公が抱く小さな望みのようなものかもしれません。
「あなた」と見つめ合うことで、まだ同じ意思を持ち続けているという確信になっています。

サンタマリア 何も言わないさ
惑うだけの言葉で満たすくらいならば
様々な幸せを砕いて 祈り疲れ
漸くあなたに 会えたのだから
一緒にいこう あの光の方へ
手をつなごう 意味なんか無くたって

サンタマリア 何も言わないさ
惑うだけの言葉で満たすくらいならば
様々な幸せを砕いて 祈り疲れ
漸くあなたに 会えたのだから
一緒にいこう あの光の方へ
手をつなごう 意味なんか無くたって

サンタマリア 闇を背負いながら
一緒にいこう あの光の方へ

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一番のサビ部分が二回繰り返されます。

主人公にとって”闇=呪い”であり、兆しの見えない真っ暗なものが抱えられているのかもしれません。
それでも光=闇を抜け出す瞬間は待っているのかもしれません。
どんな状況でさえも二人で一緒に未来を探していこう、という思いで歌詞が締めくくられています。

ミュージックビデオには米津玄師本人が登場し、絵本を用いるなど、独特の印象的な世界感がつくられています。

また歌詞の中に具体的な言葉が出ていない代わりに、筆者の解釈とは違うストーリーも生まれてくるかもしれません。
是非、様々なストーリーを描いてみてくださいね。