社会現象になった尾崎の死

尾崎豊が26歳で急死した1992年、ぼくは中学1年生でした。

多感な時期にさしかかり、ぼつぼつ音楽に興味を持ち始めた矢先、尾崎の死に出くわしたのです。

彼の音楽がどうというより、過熱報道が凄まじかったですね。あの大騒動は空前絶後じゃないでしょうか。

あまりにも突然で不可解な変死。お葬式に詰めかけた鈴なりの群衆。最期の地で泣き崩れる熱狂的な尾崎信者。

チャンネルをひねればどの局も尾崎一色。歌が耳から入ってくる以前に、尾崎豊の影響力をまざまざと見せつけられました。

「十七歳の地図」は尾崎豊の初PVが作られた楽曲!強く生きる意志を描いた歌詞を解説!同名アルバム収録曲の画像

ワイドショーが新しいファンを連れてきた

尾崎の死を、テレビワイドショーが好奇の目で見ていたことは事実です。

ですがその反面、過熱報道が新たなファン層を獲得したことも事実です。

新たなファン層とは、ワイドショーのお客さんである主婦でした。

連日連夜、尾崎の歌と若者の叫びを耳にするうち、身も心も尾崎豊に染まった主婦も少なくなかったようです。

ワイドショーは尾崎の虜になった主婦にも密着取材していました。

あれからもう25年。当時主婦だった新規尾崎ファンも今や中高年。変わらず尾崎を愛していますか? 

死せる尾崎、チャートを動かす。

訃報が報じられた直後、ミュージシャンの曲はよく売れます

そのこと自体は珍しくありません。今だと西城秀樹がそうですね。

尾崎豊も例外ではありませんでした。売れ方も桁外れでした。

尾崎が亡くなったのは1992年4月25日翌月のアルバムチャートが大変なことに!

1992年5月25日付けのオリコンアルバムチャートでは、TOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『放熱への証』、4位『回帰線』、5位『十七歳の地図』、6位『LAST TEENAGE APPEARANCE』、7位『壊れた扉から』、9位『誕生』。なお、TOP10外に14位『街路樹』がある)。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎豊

なんとオリジナルアルバム全6枚が、6枚ともオリコンTOP20にチャートイン!

また没後から現在に至るまで、生前の音源を元に5枚のシングルがリリースされています。

15の夜 (ライブ) - THE NIGHT (LIVE) (1993年)
OH MY LITTLE GIRL (1994年)
もうおまえしか見えない (1996年)
風にうたえば (1999年)
FORGET-ME-NOT/OH MY LITTLE GIRL (2001年)

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎豊

これら5枚に、再発売された「卒業」と「I LOVE YOU」も加えると、本人不在で7枚ものシングルが世に出ています。

記録にも記憶にも残るアーティストとは彼のことでしょう。

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恩人との出会い

時計の針を尾崎豊のデビュー前夜に戻しましょう。

時は1983年。今から35年前。粗削りの原石に光るものを見出した大人がいました。

「十七歳の地図」は尾崎豊の初PVが作られた楽曲!強く生きる意志を描いた歌詞を解説!同名アルバム収録曲の画像

プロデューサー須藤晃の慧眼

尾崎のデビューに一役買ったのが、尾崎のプロデューサーとなる須藤晃です。

埋もれた逸材を発掘する手腕には定評があり、「初恋」で有名な村下孝蔵も須藤晃が手がけています。

ミュージシャンとじっくり向き合い、対話を重ねて作品制作を後押しするタイプのプロデューサー。

今でもぼくたちが思い浮かべる尾崎豊のイメージを、尾崎本人との共同作業で形作っていきました。

自らは決して目立たぬ須藤晃は、永遠のカリスマ・尾崎豊を作り上げた陰の功労者なのです。

驚異のデビューアルバム!

須藤晃との共同作業を経て、尾崎豊デビューに漕ぎつけたのは1983年12月1日。

アルバム「十七歳の地図」シングル「15の夜」の同時リリースでのデビューでした。

「十七歳の地図」は尾崎豊の初PVが作られた楽曲!強く生きる意志を描いた歌詞を解説!同名アルバム収録曲の画像