烏合の衆にすらなれない
潜在的にはトップオブザワールド 感覚的にはアカデミー賞
現実的には烏合の衆のそれ以下の以下の以下
出典: なにをやってもあかんわ/作詞:岡崎体育 作曲:岡崎体育
引きこもってばかりいては自分の実力を計ることができません。
しかし自分の実力は実は金の鉱脈、ダイヤモンドの原石であるかもしれないです。
何せ実力が計れないのですからどんな推測も成り立ちます。
ギネス級の記録を打ち立てる偉大な才能が眠っているかもしれないと夢見ながら眠るのは楽しいことです。
親御さんは心配されるでしょうが他人に迷惑はかけていません。
「なにをやってもあかんわ」のMVが何かの賞を取れるとは思えないのでやはりアカデミー賞は遠そう。
だからといって自分のことをダメだと思いこんでしまうのが一番ダメなことです。
のび太がドラえもんにそういっています。
しかし烏合の衆になるにもそれなりの資格があるのは事実です。
家畜のように飼いならされている烏合の衆などといわれますが社会層としては中産階級からが条件。
今の日本社会にあって中産階級というのは結構なグレードです。
非正規の労働者はたくさん溢れています。
労働者ですらない人も一定の数いるのです。
音楽家なんて本当に食べてゆける人はごく僅かに過ぎないもの。
今やさいたまスーパーアリーナをワンマン・ライブで埋める彼ですがかつては不安定な立場でした。
納税は消費税だけ。
それでも立派な納税者です。
しかし烏合の衆以下などと自分のことを思ってしまうもの。
日本の格差社会はここ数年でますます激化しています。
ありがとう岡崎体育
爽快な鬱曲
もうなにをやってもあかんわ もうなにをやってもな
もう実際問題あかんとおもった時点でもうあかんわ
もうなにをやってもあかんわ もうなにをやってもな
もう一体全体なんなんだ もういっそ一生寝たろかな
出典: なにをやってもあかんわ/作詞:岡崎体育 作曲:岡崎体育
もはや深読みを赦さない岡崎体育のストレートな想いを受け止めるしかないようです。
怨嗟の言葉がマシンガンのように撃ち出されます。
いかれたグランジ・ロックみたいな編成でのバンド・サウンドはもはや「盆地テクノ」の面影がないです。
「渾身の捨て曲」
しかしこんなに爽快な鬱曲をお蔵入りさせるのは勿体ない話です。
あかんことなんて実際には何ひとつないいい曲に仕上がっています。
憎たらしいくらい魅力がある曲です。
岡崎体育が本当に寝てばかりいたらこの世界は退屈になってしまいます。
ありがとう岡崎体育。
純真な魂の悲鳴
2皿の中華料理
全身全霊お利口な子 でも憧れてるのはヒップホップの人
天津飯と酢豚のセット 幸せのカタチやな
出典: なにをやってもあかんわ/作詞:岡崎体育 作曲:岡崎体育
悩み多きものこそまっとうな魂の持ち主です。
HIP HOPのスターに憧れていようがその点は変わりません。
純真な魂で過ごしているとこの世は地獄のようにキツイことばかりです。
早々に弱音を上げるとすぐに社会から排斥されてしまいます。
日本の社会は本当に人に優しいのでしょうか?
そして町のしなびた中華料理屋でこそ一息ついて幸せや自分らしい価値基準を再確認できるのです。
幸せというのは巨額の富とともに確認できるものではありません。
何故ってそんなお金とは縁遠いですから。
中華料理屋で2皿も頼めることの方が生きている実感が湧くものです。
烏合の衆以下の庶民にも幸せはあります。
2皿の中華料理です。
1皿では貧しすぎるという訳ではない。
2皿を食べないと岡崎体育の食欲は満足できないのですから仕方がない。
何にせよこれくらいのことで責められる謂われはないです。
庶民のささやかな幸せに他人が首を突っ込んでダメだよという資格はありません。
愚痴を芸術に昇華
直情パンクかグランジか
もうなにをやってもあかんわ もうなにをやってもな
もう実際問題あかんとおもった時点でもうあかんわ
もうなにをやってもあかんわ もうなにをやってもな
出典: なにをやってもあかんわ/作詞:岡崎体育 作曲:岡崎体育
「盆地テクノ」の名残なのかブレイクのようなパートです。
RAMONESから派生したようなパンク・ロックは反復の概念がありテクノと親和性があるはず。
MVで視ると分かるのですが岡崎体育の腹鼓のようなビートが決まっています。
ここまで楽曲を聴いていると「捨て曲」と呼んでいる割にはいい曲だなあと思うようになるのです。
そうなると「なにをやってもあかんわ」ではなくなってきます。
「結構やるじゃん」「いや本当にいい曲だわ」そんな印象すら持つようになるのです。
直情パンクかグランジ・ロックみたいなサウンドで疾走感にあふれて諦念をぶちまける。
嫌なことは口に出すと解消されます。
「なにをやってもあかんわ」といい続けている内に事態がいい方向に進んでいるようです。
頭の中でもやもやした思いを抱えた人はそれを一度口に出してみては如何でしょうか。
もしくは疾走感あふれる音楽に昇華するのです。
そのうちに愚痴は音楽に変わっています。
愚痴が芸術のようなものに変わりゆくのです。
あなたの諦念が今、大輪の花を咲かせました。