米津玄師「リビングデッド・ユース」とは?

「リビングデッド・ユース」は、2014年4月23日に発売された米津玄師の通算2作目のアルバム、「YANKEE」に収録された楽曲です。

MVは、最初気味の悪い動物のお面をつけた人を眠りながらに彷徨うように追いかけて行くシーンから始まるのですが、そのお面をつけた人もよく見ると追いかけている男性と同じ格好をしていることがわかります。

そのため、最後のシーンで笑った自分の顔のお面をつけ、再び布団に潜り込んだ男性を最後に花瓶を持った手が撲殺するのですが、そのあとに子供が作ったような段ボールの家の中で目を閉じる男性の手には花瓶があります。

殺したあとに殴った人間が握らせたのか、夢遊病のような状態でこの男性自身が誰かを殴り、そして、また眠りについたのかもしれませんね。

この男性が何人いるのか、それとも一人なのか、謎に包まれたMVですが、たった一枚お面をつけたら誰なのかも表情もわからないことで、実際に人は見た目を変えただけで誰かもわからなくなる、そして、表情を取り繕えば何を考えているのかもわからなくなるという、人間が不確定な存在であることを表現しているのではないでしょうか。

そんな世の中で、一体誰を、何を信じることができるのかという疑心暗鬼になる心情を描いているともいえるでしょう。

また、MVに登場している男性は成人にもかかわらず子供のようなパジャマにクマのぬいぐるみを連れた格好で、子供のおもちゃに囲まれたシーンがなんども映ります。

「未だ大人になれず」という歌詞も登場しますが、大人になりきれないでいる、うまく生きていけない子供の部分を内包している大人たちを表現しているのかもしれません。

「リビングデッド・ユース」はいじめの経験を描いた曲?!


見出しのようにネット上では噂になったこともありましたが、実際にはいじめを受けていた経験もあるという犯人が起こした事件に影響を受け、この曲の着想に至ったということでした。

ただ、曲中に出てくる「呪われた」という言葉通り、本当に呪われているんじゃないかと思っていた鬱屈とした小中学生の頃を思い返しながら作った曲だというようなことは以前インタビューで語っていたので、米津さん自身、何か辛い経験をしていたのでしょうか。

「「嫌い」を吊るしあげ帰りの会」という歌詞も、「帰りの会」というくらいですから小学校時代、実際には何もしていないのに、自分のことを「嫌い」というだけで濡れ衣を着せられ、「帰りの会」でクラスメイトや先生から責められた経験から書かれた歌詞なのかもしれません。

というわけで、真相を探るためにも、次は歌詞の意味を詳しく見ていきたいと思います。

米津玄師「リビングデッド・ユース」の歌詞解釈

ここからは米津玄師の「リビングデッド・ユース」の歌詞解釈をします。

曲名の「リビングデッド・ユース」を英語で書くと"living dead youth"となり、訳すなら生きる屍のような若者といった感じでしょうか。

この曲名が何を意味するのかにも注目して歌詞を見ていきましょう。

目を閉じたまま彷徨い歩く若者はそれでも悲しみと痛みを手放せない

さあ目を閉じたまま歩き疲れた
この廃墟をまたどこへ行こう
そう僕らは未だ大人になれず
彷徨ってまた間違って
こんな悲しみと痛みさえ どうせ手放せないのならば
全部この手で抱きしめては
情動遊ばせて笑えるさ

出典: https://twitter.com/y_lyrics/status/923417941516808194

散々傷ついて育ってきて、自分を守るために「目を閉じたまま」歩き続ける若者。

ここまで年を重ねるのに、すっかりボロボロになって疲れ果て、「廃墟」のようになった人生を行くあてもなく彷徨うのでした。

年齢だけが増えていっても、「僕らは未だ大人になれず」目を閉じて「彷徨って」「また間違って」傷を重ねて行く。

そして、積み上がっていく「悲しみと痛みさえ」手放したくても手放せないならいっそ、そんなふうにいちいち傷ついている自分を笑って生きていこうと言っているのです。

情動とは急激な感情の動きですね。

悲しい苦しいと強く感じる自分を客観的に見ることで、その痛みを減らそうとする姿が窺えます。

「「嫌い」を吊るしあげ帰りの会」が意味するものとは?

さあ呪われたまま笑い疲れた
この現世をまたどこへ行こう
もう息も続かない
喉も震えない
失ってまた躊躇って
「嫌い」を吊るしあげ帰りの会
どうせ負けてしまうのならば
弱いまま逃げてしまえたらいい
消して消えない灯りの先へ

出典: https://twitter.com/y_lyrics/status/924482425744375810

前の歌詞では傷つき続ける人生でも生きていくために、自分の感情さえ客観的に見て笑おうとしましたが、今度はあまりにも傷つくことが多すぎて、「笑い疲れ」てしまったのでした。

呪われているとしか思えないような日々の中、言いたいことも言えなくなっていく。

その様子はさながら、「帰りの会」で自分が「嫌い」という理由だけで濡れ衣を着せられて「吊るしあげ」られ、言いたいことも言えずに「負けてしま」った小学生の頃のようだと思い至ります。

そして、自分は何もしていない、悪くないと釈明を重ねても誰も信じてくれなかった「帰りの会」のように、年を重ねた今もまた「どうせ負けてしまうのならば」、いっそ自分の負けのままでいいから、「弱いまま逃げてしまえたらいい」と思うのでした。

「消して消えない灯りの先へ」という言葉で語られているのは、死んでしまった方がマシかもしれないというような切迫した思いです。

自分には関係がないと思っている人たちにとっては、力の強そうな方についておこうというただそれだけのことかもしれませんが、吊るしあげられて、負けさせられる人間の気持ちの辛さは、その人にしかわからないものです。

しかも、そんな救いのない出来事が呪いのように続いたら...どんな気持ちになるかはわかりますよね。

辛い過去が今生きる意味に変わっているから

シクシク存在証明
感動や絶望に泣いて歌う
迷走エスオーエスの向こうに
救命はないのを知っていたって
精々生きていこうとしたいんだ
運命も偶然も必要ない
遊ぼうぜ
明けぬ夜でも火を焚いて今
そんなそんな歌を歌う

出典: https://twitter.com/y_lyrics/status/925909342708121601

「シクシク」と「感動や絶望に泣いて歌う」ことが自分の「存在証明」になると思えば、救いのない出来事にも意味が見出せるという歌詞。

この言葉はひたすらに辛い思いをした子どもの頃の自分へ、その頃の悲しみや痛みが今こうして歌になっているんだよとせめてもの報いをもたらそうとしているのでしょう。

彷徨って、誰かに助けを求めても「救命はないのを知っていたって」、明けない夜でも火を焚くように細々とでもいいから「精々生きていこうとしたい」という歌詞には、必死で生きようとする一人の人間の姿が描かれています。

「運命」や「偶然」のような他力には全く期待しなくなった今、失うものはないんだから自分の人生をも遊んでやるということですね。

傷つき続けた人生が歌になり、心を強くさせ、生きる力に変わった。

だから、学校にいたら死んでしまいたくなるなら、学校から逃げてもいいから、生きてくれというような生きていればいつか自分の景色が見える日が来るというメッセージにも聞こえます。