奥田民生の「愛のために」ってどんな曲?

【愛のために/奥田民生】〇曲分のアイデアが?!ユニコーン解散後のソロシングル第一弾!歌詞&動画あり♪の画像

1994年にリリースされた奥田民生シングル「愛のために」は、ユニコーン解散後本格的にソロ活動を開始した記念すべき楽曲です。

同曲は「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」(フジテレビ)のED曲に起用され、累計106万枚を突破。自身初のミリオンセラーを達成した楽曲となりました。

知ってるようで知らなかった奥田民生のプロフィール


ここからは、奥田民生のプロフィールを簡単にご紹介します。人気バンドユニコーンからバンド解散、そしてソロ活動。さらにユニコーン再結成までざっくり時系列でご紹介します。

伝説のロックバンド・ユニコーン

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1965年生まれ、広島県出身の奥田民生は地元広島で結成されたロックバンド「ユニコーン」のボーカルとして、1987年アルバム『BOOM』でメジャーデビューしました。

1980年代後半は、空前のバンドブーム真っ只中。ユニコーンもその人気筆頭に上がるバンドで、特にそのビジュアルからチェッカーズと並んでアイドル並みの人気を誇るバンドだったのです。

ロックバンドアイドル化したと言われた音楽誌『PATi PATi』をはじめとする音楽雑誌で、カバーやグラビアを飾るほどの人気でした。

「大迷惑」(1989)、「働く男」(1990)、「スターな男」(1991)、「雪が降る町」(1992)など数々のヒット曲を生み出しました。

しかし1993年、惜しまれつつユニコーンは解散。1年間の充電期間を経て、1994年から奥田民生は音楽活動を再開しました。

奥田民生のソロ・ワークス

音楽プロデューサーとして

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1994年にリリースされたソロ2ndシングル「愛のために」で本格的にソロ活動を開始した奥田民生は、その後、自身の楽曲制作のほかに音楽プロデューサーとしても名を馳せるようになりました。

1996年、Tシャツ、ジーンズがトレードマークのデュオPUFFYデビュー曲「アジアの純真」(作詞:井上陽水作曲・プロデュース:奥田民生)はミリオンヒットとなりました。

その後も「これが私の生きる道」(1996)、「サーキットの娘」(1997)、「渚にまつわるエトセトラ」(1997)と立て続けにミリオンを達成したのです。

井上陽水とのコラボ

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PUFFYの楽曲制作でコラボした井上陽水と奥田民生は、1997年コラボユニット「井上陽水奥田民生」を結成しました。

1stシングル「ありがとう」はビールのCMソングに起用され大ヒット。その後、アルバム『ショッピング』をリリースしました。

アルバムには小泉今日子に提供した「月ひとしずく」と、PUFFY「アジアの純真」セルフカバーが収録されています。

その後、ユニットは休眠状態でしたが2006年、2ndシングル「パラレル・ラブ」をリリース。翌2007年には2ndアルバム『ダブルドライブをリリースしました。

さまざまなアーティストとコラボ

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2002年にリリースされた東京スカパラダイスオーケストラ(スカパラ)のシングル「美しく燃える森」ゲストボーカルとして参加。

さらに同年には奥田民生、Char、山崎まさよしの3人で組んだユニット「三人の侍」を結成。2006年にはこのメンバーで全国ツアーも開催しました。

2003年は真心ブラザーズのYO-KINGらとバンド「O.P.KING」を結成しました。

2008年には再びスカパラとコラボした「流星とバラードをリリース。

その他、映画音楽を手がけたり若手ミュージシャンとコラボするなど、積極的な音楽活動を続けています。

ユニコーン再結成!