良い車に良い服、高級な腕時計など、いくら外観を整えてもらっても、自分の性根は変わりません。
外見と内面がちぐはぐしていることに一番違和感を覚えるのは自分自身です。
「犬に服を着せても犬に変わりはないのに」
本質の部分で彼女の期待に応えられないまま、おとなしく服を着せられている「僕」。
服を着せられた犬を通して、そんな自分に恨めしさと不甲斐なさを感じているのです。
不格好な「僕」
サビで吠える
狼の血筋じゃないから
いっそ羊の声で吠える
「馬鹿みたい」と笑う君に
気付かぬふりしながら
出典: 羊、吠える/作詞:桜井和寿 作曲:桜井和寿
狼と羊は絵本などでよくでてくる組み合わせですね。
その組み合わせにおける関係性はというと、だいたいの物語では
狼=狩る側/強い動物
羊=狩られる側/弱い動物
となっています。
羊のような弱い草食動物が吠えること自体おかしな描写ですよね。
彼は狼のように勇ましい血統を持ち合わせておらず、どちらかというと草食系の心優しい人なのでしょう。
草食系なのに強がって虚勢を張る「僕」。
そのギャップが可愛らしく見え、思わず笑ってしまう「君」。
自分の弱さを自覚しつつも強気でいたい「僕」は意地を張り続けます。
倦怠期とはこういうもの
「君」のことが大好きなのに…
僕らの信条は 50/50だったよね
でもいつしか僕の
愛情だけが膨らんでた
絡めた指に効力はない
それを分かってても
自らほどく勇気もないまま
過ごしている
出典: 羊、吠える/作詞:桜井和寿 作曲:桜井和寿
何をするにしても同じくらいの愛情の大きさで関係を紡いできた2人。
僕の中で彼女にしてあげたいことがどんどん増えていく一方で、彼女の方はこれまでと変わらない様子です。
恋愛において愛情の大きさに差があるとき、片方に不安や不満がたまることはよくある話。
それが「いいこと:嫌なこと=49:50」に反映されていたのかもしれません。
手を繋ぎはするものの、それはもはや愛情のこもった行為ではなく習慣的なものになっています。
かろうじて繋がっているその手を改めて繋ぎ直そうとはせず、離すこともできない。
2人の関係性をもう一度最初から立て直すために向き合うことも、はっきり終わらせることもできない。
「僕」はどちらにも決断できずに惰性で付き合ってしまっています。
理想と現実の狭間で
殴られたなら
もう片一方の頬を差し出すように
潔く生きれたなら
どんなにか素敵だろう
誰かが開けた扉
閉まらぬそのうちに通り抜ける
こんないやらしい習性に
頭を掻きながら
少し憎みながら
出典: 羊、吠える/作詞:桜井和寿 作曲:桜井和寿
殴られるようなことをされたとき、人はどういう反応を見せるのか。
たいていは防御したり弁解をしたり逃げたり、もしくは殴り返す人もいるかもしれません。
あえてもう片方の頬を差し出すというのは、してしまったことを受け止め、気の済むまで殴らせるということ。
誰もが憧れる真摯な行為ですし、心が広くなければ到底できないふるまいです。
そんな人格に憧れつつも、現実に染み付いているのは自分の力を使わず楽な道に便乗しようとする腐った根性。
理想と現実のギャップに仕方がないと思いつつも、僕はどうしてこうなんだとうんざりしています。
倦怠期は良い機会かも?
狼の血筋じゃないから
今日も羊の声で吠える
「馬鹿みたい」と笑う君に
気付かぬふりしながら
少し憎みながら
深く愛しながら
出典: 羊、吠える/作詞:桜井和寿 作曲:桜井和寿
群れの中で周りと足並みを揃えながら行動する草食動物の羊。それが「僕」。
自立的に行動できないし、期待できる自分でもないけれど、「君」の前ではいっちょ前に吠えていたいのです。
「君」はきっと「僕」が強がっていることも、「49:50」であることもわかっています。
おそらく「僕」だけの愛情だけが膨らんでいたわけでもなかったでしょう。
彼のそばにはいっぱいいっぱいな「僕」を、優しいまなざしでまるごと受け入れる「君」の姿があります。
「僕」の精一杯の虚勢を笑う「君」のことを少し憎らしいと思うその反面。
どんなに格好つけてもそれを見抜き、それでもそばにいてくれる「君」のことを深く愛しているのです。
倦怠期は、いることが当たり前になってしまった恋人との愛情を再確認する良い機会なのかもしれない。
この曲はそんなことを教えてくれる楽曲なのではないでしょうか。