スピッツ「冷たい頬」とは?

「冷たい頬」は1998年3月18日に発売された、スピッツの18作目のシングル、「冷たい頬/謝々!」(つめたいほほ/しぇいしぇい)に収録された楽曲です。

「冷たい頬/謝々!」は、1週間後に1998年3月25日に発売された、8作目のアルバムである『フェイクファー』からの先行シングルで、両A面シングルとしてリリースされました。

「冷たい頬」というタイトルが指すものとは?冷たいのは死んでいるからじゃなくて、元気だから!?

死というテーマが多く扱われるスピッツ楽曲であることから、「冷たい頬」というタイトルは、病に侵された死にゆく頬であったり、死んで冷たくなってしまった頰と解釈する人も多いようです。

しかし、こんなシーンを想像してみてください。

ある冷たい風が吹く日に子供が元気いっぱい遊んでいます。

寒さも気にせずに夢中で遊び続けると、洋服を着ている部分は汗をかいて暖かくなっているかもしれませんが、頬は風にさらされ続けたせいで冷たくなっていますよね。

このように、「子供みたいな光」、「風に吹かれた」という歌詞から想像すると、子供のように寒さも気にせず外にいた無邪気な彼女の「冷たい頬」と解釈するのが妥当なのではないでしょうか。

そして、この曲のキーワードの一つである「シロツメクサ」は外に咲く花ですよね。

吹く風など気にせずに凛と咲いている、ほんのり赤く色づいた白い滑らかな花弁からは、冷たい風に吹かれたせいで陶器のように白い女の子の頬がほんのり赤く染まっている姿も連想できます。

また、子供が遊びで作る花冠にもよく使われるシロツメクサは、先ほど連想した無邪気なイメージにもつながりますね。

このことから、「冷たい頬」と「シロツメクサ」は、この歌詞の「僕」が想いを寄せる子供のような無邪気な女性のことを歌っていると解釈できます。

死のイメージで解釈されていた方は正反対の解釈で受け入れられないかもしれませんが、スピッツ歌詞解釈は自由というバンドの方針ですし、ここからの歌詞解釈で詳しく解説していきますので解釈を読む中でこんな解釈もありかもと思っていただければ幸いです。

スピッツ「冷たい頬」の歌詞解釈

「冷たい頬」は子供のような無邪気な彼女の風に吹かれて冷えた頬という解釈をしました。

では、歌詞の中でその彼女と「僕」の恋愛がどのように描かれていくのか、そして、「冷たい頬」に触れた記憶が何を意味するのかに注目して、歌詞を解釈していきます。

「僕」の想いをまっすぐに受け止め、そして断った「君」

「あなたのことを深く愛せるかしら」
子供みたいな光で僕を染める
風に吹かれた 君の冷たい頬に
ふれてみた 小さな午後

出典: https://twitter.com/spitzlyrics/status/833241163943415808

ずっと想いを寄せていた彼女への恋の終わりが回想される歌い出しの歌詞です。

この後の歌詞でわかりますが、友達のようにふざけあう関係だった彼女にずっと片思いをしてきた「僕」。

長い間手帳の隅に挟んだままの押し花のように隠してきた想いを、ある日の午後、ついに告げたのですが、「あなたのことを深く愛せるかしら」と断られてしまったのでした。

「あなたのことを深く愛せるかしら」という言葉は普通の疑問系にも見えますが、ここでは反語だと思われます。

というのも、「君」は「僕」の思いにずっと前から気づいていて、自分を思う「僕」の想いがとてつもなく深いということを知っていたのでしょう。

しかし、彼女にとっては、友達としての好きであり、一緒にいたい相手であってもその想いには応えられないときっぱり断ることが「僕」のためだとわかっていたのです。

つまり、この言葉には続きがあり、「あなたのことを深く愛せるかしら」、いいえ、あなたほど深く愛せるはずがないわということなのです。

「僕」の目をまっすぐ見つめて、告白を断った彼女の目は澄んでいて、そんな彼女の瞳に映った「僕」は「子供みたいな」無垢な「光」で染まっているように「僕」には見えたのでした。

振られたにもかかわらず、そんな穢れのない心を持った彼女を美しいと感じた「僕」は思わず彼女の頬に触れます。

寒さも気にせずに外ではしゃいでいた彼女の「頬」は「風に吹かれ」て冷たくなっていたのでした。

片思いの日々に、もしかしたらと期待を抱いたのが間違いだった

あきらめかけた楽しい架空の日々に
一度きりなら届きそうな気がしてた
誰も知らないとこへ流れるままに
じゃれていた猫のように

出典: https://twitter.com/neko_kashi_bot/status/736831721564299264

じゃれ合う猫のように、毎日特に目的があるわけでもなくただ遊んでいた、彼女との日々は、確かに楽しいものでしたが、片思いをしている人ならわかると思いますが、自分の気持ちをひた隠して一緒にいるのは同時にとても苦しいことでもありますよね。

常に友達として接してくる無邪気な彼女に応えるために、自分の気持ちは抑えて、空想した彼女と結ばれた「楽しい架空の日々」なんて諦めていたはずなのに、小さな瞬間に「一度きりなら手が届きそう」、つまりもしかしたら恋人としての楽しい日々に手が届くかもと期待を抱いたのです。

しかし、「 一度きりなら届きそうな気がしてた」という言葉から、冒頭歌詞で描かれていた、きっぱりと振られてしまったシーンを思い出し、そんな期待を抱いたのが間違いだったと振り返っている「僕」の姿がわかります。

君と一緒にいた日々の中で気づかないうちに壊れていった「僕」

ふざけ過ぎて恋が幻でも
構わないといつしか思っていた
壊れながら君を追いかけてく
近づいても遠くても知っていた
それが全てで何もないこと
時のシャワーの中で

出典: https://twitter.com/spitzzzzz1987/status/774951924986589184

「君」とふざけながら過ごす日々が楽し過ぎて、この「恋が幻でも 構わないといつしか思っていた」「僕」。

しかし、子供の頃にした鬼ごっこのように楽しい日々の中で純粋に楽しむ君に対して、自分の心が「壊れながら君を追いかけて」いたことを思い返します。

しかしながら、二人の距離が「近づいても遠くても」、「君」が「僕」を好きになることはないとどこかで「知っていた」、つまり何も始まってなどいなかったと振り返る「僕」は「それが全てで」もともと「何もないこと」だったんだと「シャワー」を浴びながら、自分に言い聞かせたのでした。

そして「シャワー」で体を流していると、今まで彼女と過ごして来た「時」も全て、体から流れ出して水に流れてなくなっていくように感じるのでした。

自分ばかりが想いを募らせて、伝えてもどうしようもない想いを伝えてしまうくらいに壊れていったというだけで、二人の間に恋なんて何も始まっていなくて、それが全てだったというこの部分の歌詞、とても切ないですね。