地上にも海の中にも星空は存在しました。
「海獣の子供」では、海の中の星の描写がとても印象的。
物語の冒頭で珊瑚の産卵が星空のようだったと語られるのです。
その描写は、海の中で宇宙の営みが行われること、海が疑似宇宙のような存在であることを予感させます。
他にも海の中では星のように見える白斑模様を持つ魚のみが消えていくなど、「星」というモチーフはこの物語の随所にちりばめられているのです。
今はもう海の中にはいない琉花は、地上の星空を見上げながら想いを馳せます。
あの時の海中の星空を。
その星空は琉花の記憶の中で眩しいほどに煌いています。
今目の前にある夜空に輝く星などは目に入らないくらい。
それは、海の中の星とともにあの二人と過ごした夏の日が輝き続けているから。
あの二人の存在が海の星空を何倍にも輝かせているのです。
物語の根底にあるテーマ
「海獣の子供」では、琉花がどういう思いを二人に抱いているのか明確に描かれることはありませんでした。
これはこの物語の根底にあるテーマの一つである「人は言葉でどれだけの想いが伝えられるのか」。
また「言葉は私たちが思っているような万能の伝達ツールなのか」ということの表れとも受け取れます。
言葉はすべてを伝えられるか
私たち人間は言葉で想いを交わし合います。
日常的なコミュニケーションのツールとして使用している言葉ですが、難しい面も存在します。
発した言葉が自分の思惑とは違う意味を持ち、思わぬ方向へ独り歩きしてしまうことは誰もが経験することでしょう。
言葉を操るのが上手い人もいますが、思うように言葉が出てこない人もいます。
「海獣の子供」の冒頭のくだりでも、琉花はあまりコミュニケーションが得意でないことがうかがえる描写がありました。
心と言葉は、必ず連動しているわけではないのです。
言葉に頼りすぎた人間
抱えている想いが誰にも理解されなくて苦しんだことはあるでしょうか。
伝えたい想いを言葉では伝えきれず悔しい思いをしたことはないでしょうか。
言葉なんかでは到底伝えられないような怒りや悲しみ、そういったものを心に植え付けていることもあるでしょう。
そして言葉にならない、何と名付けたらいいのかすらわからない想い、というものも存在します。
そういった思いを伝える手段には言葉は力不足です。
また、言葉をうまく使いこなせない人にとっては特に言葉は邪魔になります。
言葉が伝えられる想いは、いったいどのくらいなのか。これは「海獣の子供」の物語の中でも問われます。
クジラの歌
クジラのコミュニケーションツールであるいわゆる「クジラの歌」は、非常に複雑でさまざまな情報を伝えあっているといい、今でも研究され続けている存在です。
それと比較して心の一端も明確に表せない人間の言葉。
物語の中の宇宙の壮大さ、自然の営みの雄大さがここにもその姿を垣間見せています。
本当に大切な想いは、言葉などでは表現できません。
どんなに言葉を選ぼうとしても、想いが大きすぎて言葉が見つからないのです。
それほどの想いを抱く相手に逢ったとしたら、それは魂が近しい存在です。
魂が触れ合った相手とならば、言葉なんてなくとも大切な想いは伝わるでしょう。
目を見て、寄り添うだけで。
海の幽霊とは
物語の中では、光を発して消えてしまう魚を「海の幽霊」と呼んでいました。
すべてはこの「海の幽霊」から物語は始まります。
ですが大人になった琉花にとって「海の幽霊」は、あの夏の日を琉花に刻み付けて消えていってしまった二人の存在かもしれません。
水族館で見た「海の幽霊」のように消えた二人。
彼らの存在は何だったのか、どういうものだったのかは今となっては誰もわかりません。
おそらくこの先も永遠にわかることはないでしょう。
彼らの帰りを椅子を用意して待ち続ける琉花の目には、あの日の「海の幽霊」が目の前で輝くときがあるのかもしれません。
それは、夜光虫が輝く海。
そしてまたあの時と同じように二人が現れることを心のどこかで待っているのです。
二人が消えた海で輝く夜光虫に「海の幽霊」を見出しながら。
過ぎ行く季節
うだる夏の夕に 梢が船を見送る
いくつかの歌を囁く 花を散らして
あなたがどこかで笑う声が聞こえる
暑い頬の手触り
ねじれた道を進んだら
その瞼が開く
出典: 海の幽霊/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
ザトウクジラのように、優しく囁くように歌を口ずさむ琉花。
言葉にならない想いを乗せて、どこかにいるかもしれないあの二人に届くように。
あれから幾度目かの夏が過ぎ、そしてまたその夏も過ぎて秋がやってきます。
季節が過ぎ行き、時もまた過ぎ行きます。
時とともに人の記憶は薄れていくものですが、琉花の中ではあの二人の存在はますます色濃く蘇るばかりのようです。
まるで今でもすぐそばにいるかのように。
その声も、触れた頬の熱さも彼女の中では失われていません。
きっと永遠にその記憶は消えていくことはないのでしょう。
ねじれた道の行き先は
そして”本番”の海の中で見たあの眼差し。
海の流れの中で見たあの一生忘れることのできない眼差し。
”ねじれた道”はあの夏の日の激流のことでもありますし、彼ら無しで歩んでいく今後の彼女の人生を指しているのかもしれません。
そして人生のもっと先の未来、誰もが迎える終わりの時にはあの眼差しにまた会えることを彼女は知っているのです。