「Strawberry Fields Forever」との親和性

目に映る全てが
悲しく笑うなら
目を瞑ればいい

すべては幻

出典: 破裂/作詞:常田大希 作曲:常田大希

目を瞑っていれば心配ごとなんかないと歌ったのはビートルズの「Strawberry Fields Forever」です。

King Gnuの「破裂」には「Strawberry Fields Forever」と非常に親しい世界観を感じます。

サウンドに聴ける中期ビートルズ固有のサイケデリックな印象と「破裂」は近いです。

歌詞の具体的なフレーズにまで親和性があるのですから偶然ではないかもしれません。

私たちは現実を重く感じ始めると逃避してしまう癖があります。

この傾向は自然に自分を守っている行動ですからいい悪いという判断で裁けるものではないです。

瞼を閉じた先のビジョンは自分にしか見えないものでしょう。

現実の反映ではありますが、ものごとのそのものを見据えている訳ではありません。

幻視のようなものが登場して私たちを安心させてくれます。

瞼を閉じるのならば確かにそこで見ているビジョンは幻に過ぎなくなるのです。

ただ常田大希はそこから一歩さらに進んで現実そのものを否認する術を探しているような印象があります。

それは非常に退廃的な考えかもしれません。

しかしポジティブなものだけを信仰するような明るさは「破裂」の世界観に馴染まないのです。

軸さえ定かではない世界

希望の光を追ってゆこう

いつまでも篭もってないでさ
暗闇に惑わされないでいて
微かな光を
辿ってさ
生きるんだ

いつでも強がってないでさ
光だけをみつめていて
めくるめく逃避行の旅へと

すべては幻

出典: 破裂/作詞:常田大希 作曲:常田大希

塞いでいたのは誰でしょうか。

破綻しそうで涙を滲ませていたのは誰だったのか。

このラインがすべて同じ話者によるものだとすると内容に齟齬が生じます

まず希望の光を追い求めることの大切さを歌うのです。

しかしその後のラインで現実からの逃避を宣言します。

このニュアンスの違いをどう理解すればいいのでしょうか。

仔細に読み込んでいきましょう。

冒頭では涙で視界がぼやけているくらいに恋愛や現実生活に疲れていることが歌われました。

ここではそうした哀しい境遇からの脱却を促すように勇気付ける言葉をかけます。

引きこもっていては何も解決しないから希望の光を追ってゆこうと歌うのです。

もはや語り手が誰だかは分からなくなります。

男性と女性の区別さえも難しくなるのです。

おそらく常田大希がリスナーに直接語りかけているのではと思わせるトーンに変わっています。

先の見えない世界かもしれないけれども僅かな希望にすがって生きようとアドバイスしてくれます。

とにかく現実を生きろとここでは発破をかけるのです。

しかしそうした解釈とは正反対に思える言葉が次に続きます。

「破裂」して理解が難しい

光を頼りに先へ進むのは次のラインでも同じです。

しかし行く先は現実ではなく幻のビジョンになってしまうのが逃避の正体でしょう。

おそらく多くのリスナーは常田大希の意図を汲み取れないかもしれません。

しかし常田大希は親切にもこの曲のタイトルを「破裂」としてくれました

歌詞の中のドラマの中で具体的に何かが「破裂」する場面はありません。

しかし歌詞の内部で様々な「破裂」が生じているのを私たちリスナーは目の当たりにします。

食い違う証言、明らかな矛盾、そうしたものであふれている歌詞の世界の有り様が「破裂」の正体でしょう。

見たもの聴いたものすべてが幻であるような空間をKing Gnuは私たちに提示しているのです。

理解するための基本の軸のようなものさえ定かではありません。

この歌にある恋愛要素も添え物のような趣になってしまいます。

とにかくあなたと呼んでリスナーを幻のビジョンに誘うのです。

この傾向は次にご紹介するクライマックスまで延々と引き継がれます。

もうここにあるサウンドの芳醇以外は何も信じない方がいいかもしれません。

King Gnuはこの「破裂」という曲に特別な思い入れを持っています。

自分たちにしかできない幻の表現をサウンドと歌詞で見事に描ききったからです。

最後に 破裂した「破裂」を聴く

インチキを見破ってみせるから

すべて幻さ
奴らのまやかしから
連れ出すから

目に映る全てが
悲しく笑うなら
目を瞑ればいい
いっそ幻の中へと
逃げ込めばいい

出典: 破裂/作詞:常田大希 作曲:常田大希

クライマックスの歌詞になります。

ここでも「破裂」が登場しますので仔細にたどってゆきましょう。

まず世界は幻視のようなものだと告白します。

その上で為政者や権力者もしくは大資本や国家によってあなたは誤魔化されているというのです。

こうしたインチキの覆いを剥いであなたをここから現実へと連れ去りたいという思いを打ち明けます。

この気骨は非常に逞しいものでしょう。

現実に蔓延っている様々な不正を糾してゆく力だってあります。

実際に大きなパワーを持った為政者たちや、彼らがその価値を代表する国家は私たちを欺くのです。

こうしたインチキは日々、一瞬とも手を緩めずに行われます。

私たちは資本に隷属する存在ですが、ニセの対立軸などを提示されて本当の敵を忘れているでしょう。

隷属状態から脱却するためには直接資本や国家へ反逆の狼煙を上げなくてはいけません。

しかし私たちに対して為政者は様々なイデオロギーを用いて現実を覆い隠します

国と国、民族と民族、これらの対立こそ見せかけの対立軸の基本的なものです。

諸国民は連帯すべきなのに国と国同士が争っているような見せかけの中に巻き込まれます。

常田大希はこうしたインチキからあなた、つまりリスナーを救い出そうとするのです。

しかしこの試みや闘いは容易には成功しません。

音楽にできることを考えてみよう

King Gnu【破裂】歌詞の意味を徹底解釈!逃避行の旅の行先は?真面目すぎるあなたへ送るメッセージの画像

現実に覆いかぶさるベールを剥いでみたけれどもそのおぞましさに哀しい思いをするあなた。

視界に飛び込んでくる状況は私たちにはどうしようもできないシチュエーションでしょう。

そこで常田大希は「Strawberry Fields Forever」で歌われたような智慧にすがります。

繰り返しになりますが「瞼を閉じて生きるのならば心配なことなんかない」という発想です。

そして幻のビジョンの中に浸っていた方が傷付かなくて済むかもしれないと提案します。

もちろんこうした逃避では現実の問題は何も解決できません。

私たちは現実の前で自分の無力を知ったからこそ瞼を閉じて幻のビジョンに逃げてしまうのです。

常田大希はなぜこのような皮相な考えで現実から逃れようとするのでしょうか。

おそらく音楽というものの力が及ぶ範囲はイリュージョンまでだという思いがあるのかもしれません。

実際に「破裂」という楽曲で現実に立ち向かう処方箋が箇条書きにされていたとしたらどうでしょう。

それでも私たちの問題は現実においては一向に解決しないのです。

音楽は広義の政治性を帯びたものであります。

しかし音楽で政治はできません。

役割が違うから当たり前なのです。

音楽が無力ということではないでしょう。

現実に目を啓く助けになることがよくあるのですから音楽には力があります。

しかし音楽にできることは大雑把なビジョンを提示するまでに過ぎません。

常田大希とKing Gnuという音楽集団はこの点を深く考えました。

その末にいまはイリュージョンを用意してこの音楽の中に逃げ込んでくれたらいいと歌うのです。

破裂

音楽と現実とイリュージョンの関係について問うた歌。

それがKing Gnuの「破裂」の正体です。

冒頭を賑わせた男女の関係はいつの間にか後景に退いてゆきます。

King Gnuがここに極上のイリュージョンを音楽で用意したから逃げてきてもいいよと歌っているのです。

実際に私たちはKing Gnuの音楽の中でいまの時代と未来を感じました。

非常に分かりにくく矛盾にあふれた内容ですがサウンドとパッケージになると説得力が増します。

「破裂」は素晴らしいイリュージョンであり、これならば私たちは積極的に楽しみたいと願うのです。

難しいと嘆かないでください。

最初から常田大希は「破裂」しているよと私たちに断って不思議な言葉を紡いだのです。

ここにしか逃避の場所が見当たらないくらい癖になる楽曲が「破裂」でしょう。

真面目だといわれた私たちはこの「破裂」の中で音楽という快楽を知るのです。

真面目すぎる私たちも音楽はここまで自由だと教わった気分になります。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。