審査員も阿久悠さん、中村泰士さんなどそうそうたる顔ぶれで、中でも審査員の松田トシさんは明菜さんにとても厳しかったようです。

やっとたどりついた本戦大会でも明菜さんは2回も手厳しい批判をされました。

最初の挑戦では岩崎宏美さんの「夏に抱かれて」、2度目の挑戦で松田聖子さんの「青い珊瑚礁」を歌い、抜群の歌唱力を見せつけましたが「見た目の幼さと選曲が合っていない」と指摘されてしまったそうです。

しかし、それにもめげずに明菜さんは3回目の挑戦で「今回が3度目の挑戦です。私はもう大人です」と深くお辞儀をして山口百恵さんの「夢前案内人」を歌いました。

この明菜さんの所作と歌唱に感銘を受けた、中村泰士さんは、本当なら100点を付けたかったけど、電光掲示板が2桁しかないから99点になってしまったと回想していました。

そして明菜さんは無事、スター誕生史上最高得点の392点を獲得し、デビューを勝ち取りスターへの階段を上り始めます。

「スローモーション」の作詞作曲を手掛けた来生兄妹の想い

ストライド長い脚先ゆっくりよぎってく
そのあとを駆けるシェパード口笛服あなた

出典: スローモーション/作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

「ストライド 長い脚先(あしさき)ゆっくりよぎってく」という部分のストライドとは「歩幅」を意味する陸上用語ですが、マラソン中継を見ていて、偶然この言葉を耳にした来生さんは、いつか「ストライド」を歌詞に使おうと、それ以前にメモしていたそうです。

歌詞というのは、使いたい言葉やフレーズがあって書くものなんです」という来生さん。

そして、そんな来生さんの想いに応えて明菜さんもデビュー曲「スローモーション」を、新人離れした歌唱力で見事に歌いこなし、評判を呼びました。

ノスタルジックバラードの名手・来世たかおと来生えつことの詩曲コンビとは?

作詞を姉・来生えつこさん、作曲を弟の来生たかおさんが担当するという音楽界でも珍しい姉弟での詩曲コンビが、中森明菜さんのデビュー曲「スローモーション」を担当しました。

そもそもこの来生たかおと来生えつこの詩曲コンビは、他の歌手への楽曲提供だけでなく、自分たちも1976年10月にレコードデビューしているのです。

当時関係者の間では、数十万枚セールスのヒット間違いなし、と太鼓判を押されてのデビューでしたが、1万枚を突破することもなく、散々な結果に終わりました。

そして、2枚目、3枚目となかなか結果が出ないまま、もうその時すでに、姉弟の間では「今後はレコードを出してもらえないかも」という不安が常にあったそうです。

そしてそんな状態のまま3年の月日が流れ、1979年にリリースした「マイ・ラグジュアリー・ナイト」をしばたはつみさんが歌って大ヒットし、この歌は紅白歌合戦でも歌われました。

そして、その後1981年にリリースされた薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」、そして同じく1981年にリリースされた大橋純子さんが歌った「シルエット・ロマンス」がロングヒットとなり、その曲で世間の注目を集めることになります。

この歌は約1年にわたりジワジワと売れ続け、1982年日本レコード大賞の最優秀歌唱賞に選ばれました。

そして1982年リリースの、中森明菜さんのデビュ曲である「スローモーション」は、ポップス系のメロディに彼女の初々しさがマッチしてとてもいい歌に仕上がっていました。

来生兄妹の明菜さんへの楽曲提供はこの歌のみならず、さらなるヒット曲をも生み出します。まさに来生姉弟は、明菜さんのデビュー当時から、スター道へと導いた一役を担った人物と言えるのです。

そして明菜さんはその後の「少女A」で「ザ・ベストテン」に出演した際に、「少女A」よりも「スローモーション」の方が好きですと、非常に「スローモーション」という曲を気に入っていた様子でした。

スローモーションは本人も好きな曲だった!

ここまで、中森明菜さんの生い立ちからデビューに至るまでの軌跡、そしてデビュー曲である「スローモーション」の誕生秘話についてご紹介してきましたがいかがだったでしょうか?

明菜さんのデビュー曲の大ヒットの背景には、来生姉弟の作詞作曲での支えもあったのかもしれません。この曲は彼女が一番気に入っている曲だそうです。

まさに、当時の中森さんのかわいらしく清純なイメージにぴったりなデビュー曲といえますね。

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