当初はコンサートのライブ演奏されたヴァージョンのみ
拓郎ファンが異様にわく名曲中の名曲
吉田拓郎作曲の名曲「落陽」は、1973年、東京・中野サンプラザで行われた「吉田拓郎リサイタル」で初めてお披露目されました。
そしてこのコンサートを収録したライブアルバム「よしだたくろう Live’73」に収録されて広くファンに知られるように。
しかしシングルカットやスタジオ録音によるシングル盤は出されず。
この曲がシングルとしてレコード化されたのは、かぐや姫解散後ソロになった山田パンダによる1976年の「落陽」が最初。
この山田盤「落陽」はベストテンにチャートインしています。
だから「落陽」という楽曲にはそもそも人を惹きつけるパワーがあるのです。
作詞者の北海道旅行から生まれた歌詞
「襟裳岬」の作詞家・岡本おさみが実体験をベースに描く
この曲、作詞も作曲も吉田拓郎かと思えるが、実はそうではありません。
作詞は岡本おさみ。
元は放送作家で作詞家に転じ、フォークブームの草創期に手腕を発揮した才人です。
代表作は吉田拓郎とのコラボ曲。
名曲の「旅の宿」や「アジアの片隅で」「悲しいのは」など数十曲。
あと岡本の歌詞に吉田拓郎が曲を付けて森進一が歌い、その年(1974)のレコード大賞を受賞した「襟裳岬」があります。
「襟裳岬」は、その名の通り、北海道道南の突端にあるえりも岬を歌ったものですが、この北海道旅行の中でうまれた、もうひとつの曲がこの「落陽」。
北海道を放浪していた岡本おさみは、ある老人と出会います。
この老人は持ち金全部をサイコロばくちに注ぎ込んでしまうような人物です。
岡本が苫小牧港からフェリーに乗って北海道を去る時、見送ってくれた、という実体験を歌詞にしました。
歌詞の中に登場する、埠頭で老人と別れるシーンやその老人の顔や仕草などがありありと浮かんでくるのは、こうした実体験がベースにあるからです。
瀬尾一三の音楽プロデューサーとしての初仕事が拓郎ライブ
中島みゆき「夜会」シリーズを手がける音楽界の重鎮
加えて、編曲の瀬尾一三(せお・いちぞう)が曲全体のイメージをクリエイト。
瀬尾一三は、1969年、フォークグループ「愚」で活動。
その後入ったアルファレコードはガロや赤い鳥が所属していた会社で、そこで独学で編曲に取り組みます。
ソロで1枚レコードを出した後、編曲者として独立し、吉田拓郎と共同プロデュースしたのが「よしだたくろう Live’73」。
これが音楽プロデューサーとしての初仕事で、以来、CHAGE and ASUKA、長渕剛、徳永英明など名だたるアーティストを担当することに。
編曲に関わった主な作品を以下に。
- かぐや姫 「22才の別れ」「妹」「なごり雪」
- 風 「海岸通り」「ささやかなこの人生」
- かまやつひろし 「我が良き友よ」
- 岡田奈々 「青春の坂道」
- バンバン 「『いちご白書』をもう一度」
- 杏里 「オリビアを聞きながら」
- 長渕剛 「順子」
- CHAGE and ASUKA 「ひとり咲き」「万里の河」
- 徳永英明 「壊れかけのRadio」
- ももいろクローバーZ 「泣いてもいいんだよ」
中でも、中島みゆきとの協力関係は長く、話題になったテレビ朝日の昼ドラマ「やすらぎの郷」の主題歌「慕情」でも瀬尾は編曲&プロデュースを担当。
そして中島みゆきが1989年から続けている異色の音楽ステージ「夜会」でも全面協力。
今や中島みゆきの音楽ワールドには欠かせない存在です。
やさぐれ老人の生活感をいきいきと活写
有名なイントロは若き日の高中正義
では歌詞をみていきますが、その前に「落陽」といえば有名な、「プァ~ンプァーンプァーン」というイントロのギターソロ。
ギャンブルで人生をしくじった老人、という歌の内容を象徴するような、この切なげなギターの弾き手は、まだ若かった高中正義です。
この頃、高中正義はスタジオミュージシャン、またはバックアップメンバーとして、レコーディングやコンサートに参加していました。
同じく吉田拓郎が作詞作曲して、ムッシュかまやつ(かまやつひろし)が歌って大ヒットした「我が良き友よ」、あの ジャジャンガ、ジャ~ン♪ というギターも高中正義。
吉田拓郎が語るに、一度譜面を見ただけですぐにサラリと弾いてしまう“ギターの大天才”だとか。
現在、高中正義は言わずと知れた日本フュージョン界の第一人者です。