別の呼び方ではノウゼンカズラとも。この違いは単なるなまりのようなものでしょうね。

重要なのはこの花の何が歌の内容に関係しているのかです。

そのヒントは漢名である「凌霄花(りょうしょうか)」という名前に込められていました。

漢名の凌霄花は「霄(そら)を凌ぐ花」の意で、高いところに攀じ登ることによる命名。漢詩では他物に絡むため愛の象徴となる。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/ノウゼンカズラ

空を凌ぐことと愛の象徴の意味が込められた凌霄花。

ここにリンクしてくるのが、安藤裕子が「のうぜんかつら」を書いたときの彼女のおばあさんのエピソードです。

「のうぜんかつら」はおばあさんのポエムから出来た1曲

この曲は彼女の祖父が亡くなったときに祖母が書いたポエムを基に作られている。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/安藤裕子

この話から、おばあさんが亡くなったおじいさんをとても愛していたことが伝わります。

凌霄花に込められている「空を凌ぐ」という言葉が表すのは、空高く昇って行ったおじいさん。

そして愛の象徴は、おばあさんのポエムのことを表しているように感じます。

おばあさんがポエムにこの花のことを書いていたのか、曲にするときにこの花のことを思い付いたのかは定かではありません。

しかしどちらにしても、素敵なエピソードだということに変わりはありませんね。

夫婦として何十年と寄り添い、愛情を持ち続けたおばあさんの気持ちに胸が暖かくなります。

歌詞を解釈!亡くなったその人をただ想う主人公

さて、ここからいよいよ気になる歌詞の内容を解釈!

MVを紹介した「のうぜんかつら(リプライズ)」は歌詞が元のものから省略されていたりします。

より曲に込められた意図を伝えるには元のバージョンの方が良いということで、ここではそちらを紹介しましょう。

尚、おばあさんの気持ちを歌ったものではあるのですが、ここではおばあさんを「主人公」。

おじいさんを「亡くなったその人」と呼んでいます。

思い出を振り返る主人公

撫でて 優しく のうぜんかつらの唄のように

出典: のうぜんかつら/作詞:安藤裕子 作曲:安藤裕子、山本隆二

「撫でて 優しく」と言っているのは、亡くなってしまったその人との思い出を振り返っての表現でしょう。

一人になってしまって寂しい心を、その人との思い出がそっと撫でてくれるようなイメージでしょうか。

優しい思い出に溢れた夫婦生活だったことを感じさせられますね。

そして凌霄花に込められた意味もそうですが、主人公はのうぜんかつらに関する歌に覚えがあるようです。

その歌にも、亡くなってしまった人との思い出が詰まっているのでしょう。

届きそうで届かない感覚

あなた何を見てたの?
ソーダ水越しでは あなたが揺れちゃって
あたしは迷っちゃって いつか一人になって

二人の時間も泡みたいになって あなたの匂いを一人捜していた

出典: のうぜんかつら/作詞:安藤裕子 作曲:安藤裕子、山本隆二

ソーダ水の注がれたグラス越しにその人を見ていたかのようなここの描写。

これもきっと例え話でしょう。

亡くなってしまったその人が今どうしているのか、何を見ているのかは主人公には知る術もありません。

その人の顔だけはいつだって鮮明に思い出せるのに、届きそうで届かないのです。

亡くなってすぐというのは特に、その人が亡くなっただなんて信じられないという感覚があります。

ここで表現されているのは、その感覚なのではないでしょうか。

「のうぜんかつらの唄」に登場した二人が憧れだった

昔見つけた唄は 赤い花の道を
二人がいつだって手と手を取り合って 並んで歩くのよ

私も二人みたいに あなたと並んで いつまでも道を行けると思ってた

出典: のうぜんかつら/作詞:安藤裕子 作曲:安藤裕子、山本隆二

ここで主人公が知っていた「のうぜんかつらの唄」が登場します。

この歌に登場した二人の幸せそうな姿に主人公は憧れ、亡くなったその人に添い遂げて来たのですね。

そして実際に死を目の当たりにしないと、いつかは亡くなってしまうということもなかなか実感できないものです。

「いつまでも道を行けると思ってた」という言葉が、亡くなったときのことを考えてもいなかったことを物語ります。

こういうときって想定外だからこそ、物思いにふけったりして動けなくなってしまうのでしょうね。