「三文」とは価値のないことを指す言葉です。
昔の貨幣でとるにたらない価値だったことから、価値のないものを。
転じてつまらないもの、値打のないことにも使われるようになりました。
そこから考えれば「三文小説」というのは、「価値のない小説」を指しているといえるでしょう。
ありきたりでつまらない、他人から見れば何の価値もないであろう小説のような人生。
だからといって二束三文に投げ売って別の物を書く気はない。
それはつまり、ありふれた人生でも何度でも大切にして思い出を書き足していく。
「三文小説」という題は、そんな愛の在り方が示されている言葉なのです。
物語の先を共に
誰もが愛任せ
いつまでも彷徨う定め
この小説(はなし)の果ての
その先を書き足すよ
出典: 三文小説/作詞:常田大希 作曲:常田大希
愛に心を任せ、彷徨う人々の姿が描き出されます。
それは僕も君も同じことなのでしょう。
愛に身を任せる在り方は否定しないまま、物語の続きを紡ぎます。
それはすなわち、人生を生き続けるということなのです。
書き続けたい物語とは
真実と向き合うためには
一人にならなきゃいけない時がある
過ちだと分かっていても尚
描き続けたい物語があるよ
出典: 三文小説/作詞:常田大希 作曲:常田大希
一人とは何を指しているのでしょうか。
君と共にいたい僕が一人になってでも知りたい真実。
それは僕が知るべきではない物語なのかもしれません。
それでも愛する人の真実を知りたい。
それは小説家が物語の続きを書きたくてやまない気持ちと同じなのです。
駄文ばかりの人生を君と生きる
三文芝居のような人生でも
あゝ
駄文ばかりの脚本と
三文芝居にいつ迄も
付き合っていたいのさ
出典: 三文小説/作詞:常田大希 作曲:常田大希
ここでは「三文小説」が「三文芝居」に形を変えて出てきます。
ここでも「三文」の意味するものは同じ。
つまらない、取るに足らないといった意味合いになるでしょう。
駄と付く文章は決して気の利いたものでもあっとおどろくものでもない。
つまらないありふれた文章で書かれた脚本。
取るに足らない人々のやりとり。
そんな君と僕の、そしてそれを巡る人々の在り方。
けれどそれはありふれているからこそ愛おしく、ずっと付き合っていきたいと感じるのです。
不器用な君を愛している
あゝ
君の不器用な
表情や言葉一つで
救われる僕がいるから
出典: 三文小説/作詞:常田大希 作曲:常田大希
上に「三文芝居」とあることから考えてみましょう。
上手な役者の出来のいい芝居と違い、君の在り方は不器用です。
売れっ子の役者のようにうまく笑ったり、気の利いた台詞を吐くことはできない。
けれどそんな純粋で嘘のない君の姿に、僕は救われているのです。