あの一言をいえていたなら
もしも私から何かを
口にしていたのなら
終わりが見えてる始まりなんかじゃ
なかったはずだね
出典: End roll/作詞:ayumi hamasaki 作曲:D・A・I
私はあのときに一言でも自分から言葉を投げかけていたならば終わりにはならなかったとだけ悔やみます。
人の交際というものはどこで道筋が分かれるかが予測不能なときがあるのです。
あのときああしていたらもっと今よりもという思いは誰しもが抱いているものでしょう。
こうした後悔は恋愛だけに限りません。
しかし時間をさかのぼって事実を修正することはできないでしょう。
そのために私たちは様々なことを諦めてしまいます。
ただし、自分がもう少し積極的になっていたら今の状態が変わっていたかもしれない。
その自分が抱えた消極性への後悔や反省というものは大事な教訓になるでしょう。
次からは間違えてはいけないという思いを未来へ繋げるのです。
別れ際に責めるのは自分の消極性のことだったという私は立派な大人の女性でしょう。
刹那な悦びに支えられた悲愛
私たちは別れる未来を想像しながらパートナーと出会う訳ではありません。
出会ったときにはそのときめきだけを信じて相手との関係を築いてゆきます。
しかし私と君は予め別れる未来が見えていたフシがあるのです。
確かに歌詞のどこを読んでも愛の永続性を信じていたというような記述はありません。
予め終わりに向かってゆく出会いというものは宿命的に悲しいものです。
しかし付き合っていた時期には楽しいこともありました。
刹那な悦びこそを大切にしていたカップルだったのかもしれません。
常に諦めのムードが漂っていたのかなと思うと悲しい恋愛だと分かるでしょう。
大袈裟な嘆きが感じられないのはこうした事情によるものでした。
ただ私にもう少し積極性があったならば回避できたかもしれないお別れ。
ときは巻き戻せないので悔やんだことは次の出会いの教訓にするしかないでしょう。
いずれにせよ「End roll」から大人の愛の難しさを知る思いです。
美しいお別れのために
「すがる女」を描かない
泣いても欲しがる子供のようには
なれなくて精一杯のサヨナラ
そして歩いていくひとり歩いてみるから
君のいなくなった道でも
光照らしていける様に
出典: End roll/作詞:ayumi hamasaki 作曲:D・A・I
浜崎あゆみはJ-POPの歴史に連綿と歌い継がれた別れ際に「泣く女」「すがる女」を描きません。
このメンタリティは非常に新しいものです。
アメリカ合衆国でビヨンセのような独創的なSSW(シンガー・ソング・ライター)が広めた傾向。
しかしこの頃、ビヨンセはまだソロ・デビューを果たしていません。
浜崎あゆみは新しい時代の傾向をいち早く採り入れた先駆者です。
私は君との別れに涙をこぼしたとしてもすがるような醜い真似はせずに済みました。
私が抱いているプライドがそうさせたのかもしれません。
もしくはこのふたりの間に横たわっていた諦めの空気のようなものが感覚を鈍磨させたのかも。
このふたりは大人の愛の終わらせ方としては理想的な美しいお別れをします。
どんなお別れだったのでしょうか。
もう少し先を見ていきましょう。
ひとりでも歩いてゆけること
私はこの先の人生をとりあえずひとりで歩んでみる決意をします。
そこには当然、伴侶である君の姿はありません。
もうそのことで争う気は私には一切ないのです。
一緒にいた日々を美しいままに記憶してゆきたい。
そのために無理に足掻くような真似はしません。
これまでは君が進むべき道を照らしてくれました。
しかしこの先の道程はしばらくひとりで歩いてゆかなければいけません。
その際に自分自身の光、つまり私が持つ希望とその魅力だけで歩いてゆこうと心を決めたのです。
その道程はより険しくなるかもしれません。
苦境をシェアする相手がいなくなってしまうのですから。
それでも大人であったなら自分の足できちんと立ってとにかく足を運んで進んでゆかなければ。
私の決意は美しいくらい凛々しくて確固としたものなのです。
一方で君にしても自分の道程を歩いてゆくのでしょう。
君の側にはもうすでに新しい伴侶がいるのかもしれません。
しかし私はそのことを気に病まないのです。
ただ、お互いの健闘を祈り合います。
これが美しい大人の別れの姿です。
「End roll」と人生の光芒
人は哀しいもの
人は哀しいものなの?
人はうれしいものだって
それでも思ってていいよね
そして歩いて行く
君も歩いてくんだね
ふたり別々の道でも
光照らしていける様に…
出典: End roll/作詞:ayumi hamasaki 作曲:D・A・I
いよいよクライマックスです。
別れに際して私は人間存在そのものの哀しみに気付いてしまうのです。
結局、人間というものの根源的な在り方とは孤独な様相なのではないかと疑ってしまいます。
孤独というものは確かに悦びをシェアするパートナーの喪失という事態を招くでしょう。
それは絶対的に哀しいことではあります。
しかし孤独に耐えられる人は強さを身に着けることができるのも確かなことでしょう。
いずれにせよ自助だけでは人は生きてゆけません。
何らかの形で社会と関わり合い、共助・公助を受けて自分の生活を切り盛りしてゆくのです。
世界にある限り絶対的な孤独は訪れません。
信用できるパートナーがいないから孤独だと即断して嘆く必要はないのです。
どこかで他者と繋がりを持ちながら生きてゆくしか人間の生きる道はないのですから。
つまり絶対的な孤独は誰でも免れています。
むしろ人は社会の紐帯から逃れることができません。
この絆のようなものは人間にとって宿命的なものです。
いずれ誰かの軌道と交錯して運命の出会いを果たす可能性があります。
人を包んでいる様々な導きは明るい方へと私たちを連れてゆくのです。
こうした交錯や交際こそ人を嬉しく幸せにするものでしょう。
運命と呼ばれる生命の行き交いが私たちをいつでも後押ししているのです。
「End roll」
私と君のドラマのエンドロールが流れます。
そこにはお互いの道をひとりで向かう男女の姿があるでしょう。
クレジットは簡略にふたり分だけです。
私と君のふたりだけ。
それぞれの道は孤独ですが決して暗くはありません。
自分自身の足元を照らすくらいの光はあるのです。
私は去りゆく君を恨むことなどなく、この先の人生の健闘を祈ります。
こうした気持ちを持ち寄って生きてゆけたならば、この先のふたりの人生は明るいでしょう。
別れというものは次に誰かと出会うための始まりでもあるのです。
私も君もこうした事実に気付いていたからこそ美しい大人のお別れができました。
恋愛だけではなく登場人物ふたりの人生すべてに祝福をもたらすような浜崎あゆみの心の美しさ。
彼女が描きたかった恋愛と人生の哲学の深さに驚きを禁じえません。
とても美しい歌をご紹介できて幸せです。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。