心像放映
私に心を見せてくれ
心像放映
火星の果てから声がする
出典: 心像放映/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
まるで「心像放映」が人間であるかのように、主人公は彼に語りかけます。
いったい誰に語りかけているのでしょうか?
「火星の果て」というのは遥か彼方。
測りがたい距離から声がしているという意味なのでしょう。
直接「遥か彼方」と表現するより、こちらの表現の方が妙味がありますね。
Aメロ(2回目)
心像放映
映像を夢に注いでくれ
心像放映
太陽も青く塗りつぶした
出典: 心像放映/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
もしかしたら「心像放映」とは、主人公自身の「イメージ」のことなのかもしれません。
自分自身が作り上げたイメージに向かって問いかける主人公。
自問自答のような葛藤がそこにはあります。
「太陽も青く塗りつぶした」という歌詞。
『黒くぬれ!(Paint It, Black)』というローリング・ストーンズの曲があります。
こちらの「塗れ」はアナーキーな表現です。
「青く塗る」という表現は、はたしてどういう意味なのでしょうか?
察するに「青」は「純粋であること」の象徴。
「青春時代」などがその良い例ですね。
イノセント、エキセントリックという意味にもとれます。
主人公は自分の「青さゆえ」太陽を塗りつぶしてしまった。
いわば「青春時代に経験したような儚さ」で太陽を覆ってしまったのです。
主人公が深い傷(トラウマ)を負っていることは確実ですね...。
悲しさゆえに我笑う
サビ
きっとまたあなたは優しくなって
私に花を贈るのだろう
それでも私はさびしくて
また涙を裂いて笑うのだ
凛と澄む心が一人になって
あなたと違う私を知る
がらくたみたいな心でも
何かプレゼントできるかな
出典: 心像放映/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
ここでは「あなた」とのできごとが過去形で表現されています。
「あなた」と「私」が過去に何かあったということ。
それはリスナーには示されません。
主人公をここまで苦悶させるのですから、「あなた」は彼にとって大事な人なのでしょう。
近しい友か家族の一員か。
はたまた恋人かパートナーか。
サビの歌詞は悲しいです。
主人公と「あなた」は近しい。
それでも頑なな主人公の心は、「あなた」に歩み寄れません。
なぜ主人公は「あなた」から花を贈られて悲しいのでしょうか?
普通ですとプレゼントは嬉しく感じます。
しかし主人公は「さびしい」と感じる...。
それも「悲しくなりすぎて、思わず笑みがこぼれてしまうほど」です。
そのうえ「がらくたみたいな心」と、主人公は自分自身を卑下します。
「心を解き放てない」主人公はその場から動かず頑ななままですね。
2番Aメロ
心像証明
ぼやけた魚が映るのは
心像証明
私の心の一部だろう
出典: 心像放映/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
2番では「放映」が「証明」に変化していますね。
「傷ついた心」を実体化したくて、空に解き放ちたくてもがいている主人公。
「自分の心の在りか」を証明したくてこの言葉が出たのでしょう。
「ぼやけた魚」というのは、実態が薄いことを意味しています。
主人公は自分自身のことを認められないでいるのです。
2番サビ
きっとまた揺れる街路樹のそばで
私の影に気付くのだろう
それでも私は嬉しくて
全てを捨て去って泣いたのだ
睫毛の下から絵の具のような
心の一部が落ちていく
きっとまだあなたは優しいんだ
それじゃ私はどうだろうな
出典: 心像放映/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
2番サビで主人公は「人間でない何か」に変身します。
「街路樹のそばで私の影に」とありますから、木々の上にたなびく雲、あるいは空。
とても抽象的な表現です。
抽象的な表現にならざるを得ないほど主人公自身の心の実態が薄れていっているのか...。
おぼろな影に「あなた」は気づいてくれるはず、と願う主人公。
それを思って涙します。
ここでは涙を心の一部ととらえていますね。
主人公にとっては「涙=ただの体液」ではなく、「涙=心の結晶」なんですね。
「あなた」の優しさを想像する主人公。
それにひきかえ自分自身は優しいのだろうか?
自らに問うています。
これは人間である私たちが普遍的に抱える課題でもありますね。
日常的に私たちは「他人」から恩を受けたり、優しくしてもらったりします。
それをその人に返せているだろうか?
あるいは、その人でなくても、普段、人に優しくしているだろうか?
忙しい現代に私たちは振り返り、そういうことを反省すべきなのかもしれませんね...。