自分が死んでもどうでもよくて
それでも周りに生きて欲しくて
矛盾を抱えて生きてくなんて怒られてしまう。
出典: 命に嫌われている/作詞:カンザキイオリ 作曲:カンザキイオリ
この部分と重なる意味をもつのは前半でもでてきましたね。
自分が周りに死んでほしくないのは「エゴ」だという部分です。
自分が悲しみたくない、辛い思いをしたくないから誰にも死んでほしくない、という想い。
自分勝手な感情だとしても理解することはできます。
誰でも悲しく辛い思いは避けたいものだから。
一方で、純粋に「皆には生きていて欲しい」とも思うのではないでしょうか。
私たちに備わっている「人間愛」の部分が垣間見えるようです。
自分はどうでもいい…という自己犠牲を美徳と思う部分も少なからずあるのでしょう。
これは複雑な感情を持つ人間の矛盾でしかなく、怒られるようなことでもありません。
しかしそうやって生きていくことがいけないことだと、なぜか主人公は感じているのです。
この理由を考えてみると、もしかしたら主人公は「自分の命」を軽んじること自体間違っている。
という想いがあるのではないでしょうか。
だからこそ自分自身での矛盾が理解できないでいるのです。
そうやって誰とも関わらないつもりなら
「正しいものは正しくしなさい。」
「死にたくないなら生きていなさい。」
悲しくなるならそれでもいいなら
ずっと一人で笑えよ。
出典: 命に嫌われている/作詞:カンザキイオリ 作曲:カンザキイオリ
人と関わることでその人を失うようなことがあったら耐えられない…。
そんな気持ちがあるから、人と関わることをやめてしまう人がいます。
周りにいくら強く生きる様に言われても、受け入れられない人がいるのです。
ここの意味は、「人がかけてくれる言葉に耳をかせないのなら、ずっと一人でいるしかない。」
というメッセージとも受け取ることができます。
今を必死に生きてみろよ
僕らは命に嫌われている。
幸福の意味すらわからず、生まれた環境ばかり憎んで
簡単に過去ばかり呪う。
僕らは命に嫌われている。
さよならばかりが好きすぎて本当の別れなど知らない僕らは命に嫌われている。
出典: 命に嫌われている/作詞:カンザキイオリ 作曲:カンザキイオリ
努力することをやめ、何かを諦め、うまくいかないことを人のせいにばかりする。
そんな人が今の世の中多いということを、主人公は嘆いているのではないでしょうか。
本当は生きているだけで幸せなのに、あまりにも多くの事を望みすぎる世の中。
そんな世の中にどっぷりとつかって生きている人は命に見放されてしまうのです。
人を切り捨て、裏切り、騙し、そして命を奪うことが簡単にできてしまうことを嘆いています。
これは人に対しても自分に対してもそういうことをする人が多く存在するということでもあるでしょう。
命を大切にできなければ命からも大切にされないんだ、という意味だと解釈できます。
命に嫌われるのは命が終わるときなんだ
本当に言いたいことを歌おう
幸福も別れも愛情も友情も
滑稽な夢の戯れで全部カネで買える代物。
明日、死んでしまうかもしれない。
すべて、無駄になるかもしれない。
朝も夜も春も秋も
変わらず誰かがどこかで死ぬ。
夢も明日も何もいらない。
君が生きていたならそれでいい。
そうだ。本当はそういうことが歌いたい。
出典: 命に嫌われている/作詞:カンザキイオリ 作曲:カンザキイオリ
歌詞も佳境です。
主人公が、カンザキイオリが伝えたかった「命」の意味。
どんな人でもいつ死ぬか、その運命はわかりません。
命の長さは誰もにコントロールできるものではないからです。
お金で買えるようなものは命とは比べ物になりません。
目に見えるものや手にできるもののために、命を無駄にするな。
そんな気持ちが伝わってくるようです。
そして一番言いたいこと、それは「生きて」という言葉だったのです。
綺麗ごとでもエゴでもなくて、「命を生きて」。
何のためとか誰のためとかではなく、与えられいつか失う命を生きる。
そんな叫びにも似た感情が伝わってきます。
「その時」は必ずくるから今は「生きろ」
命に嫌われている。
結局いつかは死んでいく。
君だって僕だっていつかは枯れ葉のように朽ちてく。
それでも僕らは必死に生きて
命を必死に抱えて生きて
殺してあがいて笑って抱えて
生きて、生きて、生きて、生きて、生きろ。
出典: 命に嫌われている/作詞:カンザキイオリ 作曲:カンザキイオリ
最初から、私たちは命に嫌われているのかもしれません。
死ぬために生まれ、生かされているうちは生きる理由がみつけられないでいます。
「生きる意味」を考えるのは不毛なのかもしれません。
ただ、生かされている命だから、いつか必ずやってくる「死」までは生きる。
それが私たちにできることなのではないでしょうか。
自分の命だけど、自分のものではないのかもしれません。
与えられて生かされているという意味を考えると、命を預かっている。
という解釈をすることもできるのではないでしょうか。
自分の命を軽んじるなんて、おこがましい事なのです。
最後の「死」は自然とやってきます。
その時まで必死にもがいて命をも守る。それが「生きること」。
私たちに課せられた「命」の宿命なのではないでしょうか。