天才的な歌唱力を持つ美空ひばり
天才的な歌唱力を持つ美空ひばりは名声を欲しいままに、1989年多くの人が惜しまれる中この世を去っています。
美空ひばりの歌手活動は1946年からの戦後間もない時期で、わずか9歳でのスタート。
並外れた歌唱力で、「天才少女歌手」とも呼ばれるほどの才能を披露しています。
笠置シヅ子の『東京ブギウギ』などをカバーし、「子供が大人の歌を歌いあげる」と珍しがられたこともあり注目度もアップしています。
そして若干12歳で主演した映画で『悲しき口笛』を披露。
同ナンバーは、それまで音楽界で成しえなかったほどの異例の大ヒットを遂げます。
病気からの奇蹟的な復活
デビューから43年を迎えた年に、この世を去った美空ひばり。
彼女の人生は華やかに見えますが、決して優しい道のりではありませんでした。
発端は1980年代に入った頃で、マネージャーとして常に共に歩んでいた母が他界。
その後も弟2人が相次いで亡くなり、美空ひばりとも親しかった江利チエミまでもこの世を去るなど不幸が相次いでおり亡くなった弟の息子を養子縁組しています。
親族や親しかった人の不幸は美空ひばりの精神を蝕み、次第に病魔に侵されることに。
1987年には重度の慢性肝炎など複数の病気を診断され、入院を余儀なくされます。
その後、1988年に東京ドームで奇蹟的な復活をアピール。
しかし病魔は刻々と進行しており度々入退院を繰り返すようになりますが、それでも美空ひばりは歌手人生にすべてを捧げる気持ちでいたのだとか。
こういった部分を見ると、日本のミュージックシーンで語り継がれるべきアーティストだというのが分かりますね。
美空ひばり最後のシングル『川の流れのように』
華やかな反面、私生活は決して順風満帆ではなかった美空ひばり。
彼女の最後のシングルとしても代表曲として知られる『川の流れのように』は、1989年1月にリリースされました。
実はこの後もジャケットデザインなどを変えて度々リリースされており、これまで7回程行われているナンバーです。
この理由は日本の歴史に名を残す美空ひばりの最後の楽曲という部分が大きく、他のアーティストもカバーすることが多い一曲でもあります。
制作は秋元康
美空ひばりはどちらかと言えば演歌寄りの楽曲を歌うことが多いですが、『川の流れのように』はしっとりとしたバラードテイストの一曲。
制作したのは、AKB48をプロデュースした人物としても知られる秋元康その人です。
楽曲を手掛けていた当時秋元康はニューヨークに住まいを移しており、作業をしていたカフェそばで流れていたイーストリバーを眺めながら作詞をしていたのだとか。
このため『川の流れのように』の「川」は、ニューヨークのイーストリバーを指しています。
人生の浮き沈みを美空ひばりテイストで歌い上げる
『川の流れのように』は、人生を川の流れに例えて歌った珠玉のナンバー。
水の勢いで流れていく川と、何もせずに刻々と時が過ぎる人生を絶妙に噛み合わせた歌詞が魅力の一つです。
そんなナンバーを美空ひばりは自身の人生と重ねて歌っており、彼女らしいテイストで歌い上げています。
このため当初『川の流れのように』はアルバム曲として収録されるはずでしたが、シングルカットされたほど思い入れのある一曲なのがうかがえます。
ゴージャスなステージ衣装の意味
美空ひばりの『川の流れのように』と言うと、誰もがイメージするのはゴージャスなステージ衣装ではないでしょうか。
あの衣装は森英恵がデザインしたもので、「不死鳥」をイメージして羽などをふんだんに使用しているのが特徴。
着用してステージに立っているのは、1988年4月に行われた東京ドームのこけら落としのコンサートでのことでした。
実はこの当時美空ひばりは病気療養から復帰したばかりで、元気にステージに立っている状況と衣装が相まって「不死鳥」の印象を強めた出来事でもありました。
このため「『川の流れのように』=美空ひばり=不死鳥」と言う一連のイメージは、ほとんどの人が持っていると思われます。