「平凡」に収録された問題作!

ドレスコーズ【エゴサーチ&デストロイ】歌詞の意味を解釈!ノーマルな僕はどんな存在?見果てた夢の結末はの画像

難解なMVとその世界観でファンを惹きつけるドレスコーズ。

「エゴサーチ&デストロイ」はドレスコーズの5枚目アルバム「平凡」に収録されている曲です。

MVに登場する「平凡さん」と、その横で必死に足掻いている男。

ミーマリストとノーマリストの対比がとても巧みに表現された一曲になっています。

しかし、その思想は一見すれば危険思想

末法思想と言えるのかもしれません。

僕らは、誰なのか。

どうなるのか。

その答えがあるような気がします。

今日はそんな「エゴサーチ&デストロイ」の歌詞を深掘りして解釈していきたいと思います。

ドレスコーズに興味がある人、人生に悩んでいる人必見です!

「エゴサーチ&デストロイ」解釈のポイント!

この曲の解釈のポイントは、ずばり「個性」とは何か、です。

この曲を解釈するにあたってMVを注意深く見る必要があります。

MVに登場する「平凡さん」こと、身なりの整った男は何の象徴なのか。

その横で必死に足掻く男は、何がしたいのか、結局どうなるのか。

ちなみに「エゴサーチ&デストロイ」は、「サーチ&デストロイ」のオマージュになっています。

ベトナム戦争のときアメリカ軍が取った作戦、「探して殺せ」のことです。

つまりこの曲では「個性」を探して殺せといっているのですが、その真意やいかに。

こういった、難解な語句や元ネタの把握も必要になってきます。

それらは随時解説するとして「結局自分はどんな存在なのか」を考えなくてはなりません。

ドレスコーズ【エゴサーチ&デストロイ】歌詞の意味を解釈!ノーマルな僕はどんな存在?見果てた夢の結末はの画像

個人が尊重される時代の中で

あいまい”me”とは ありがちな存在
あいまい”me”とは カリカチュアちょうだい

出典: エゴサーチ&デストロイ/作詞:志磨遼平 作曲:志磨遼平

あいまいな自分

あいまい"me"とは、中学校の英語の時間に習った「I my me mine」からきています。

あいまいな私にどうにかして、存在する意味を見出したい。

そうやって自分のアイデンティティを追い求めるわけですね。

それこそがまさに、「平凡さん」の横にいる男です。

その男は「自分」という存在が強くあると思っているわけですね。

しかしそれはあいまいなものだったのです。

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カリカチュアとは?

 そして、ここで「カリカチュア」という言葉が出てきました。

カリカチュアとは風刺画のことです。

日本史の教科書などで近代のページによく見られるかと思います。

ビゴーなんかが有名ですね。

時代の政界の状況などを誇張とユーモア、皮肉を含んで描かれる絵画のことです。

カリカチュアちょうだいとは、つまりそんな誇張をしなければ自分が保てないということではないでしょうか。

どこかを偽ってでも大きく見せないといけないほどに、本当の自分はあいまいだということでしょう。

自分とは、ありがちな存在?!

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さて、この曲ではじめに耳に飛び込んでくる衝撃の歌詞

自分はあいまいで、ありがちな存在であるという意味のこの歌詞

これは「個人」「人権尊重」と言われて久しい現代において、よく考えればパワーワードですね。

元々「自由」や「個人」という概念は中世西洋で「絶対王政」へのアンチテーゼとして生まれました。

日本でも、幕府の崩壊とともに西洋からその概念が輸入されてきました。

そして、「サーチ&デストロイ」に見られるような幾つもの戦争を人類は経験します。

そして、現在「個人の時代」といわれる家族さえ分化した現代が到来しているわけです。

こういう歴史の中でこの曲を捉えると、この曲の奇抜さがより理解できると思います。

この曲は終始「自分なんていない、自我なんてない」と訴えかける曲です。

考察を進めていきましょう。

自分が相対とはどういうこと?!

あいまい"me"とは 誰かとの相対

出典: エゴサーチ&デストロイ/作詞:志磨遼平 作曲:志磨遼平

相対とは、比べることです。

比べることができない「絶対」の対義語ですね。

自分とは、誰かとの相対である。

これは、自分は他人がいて初めて自分になる、ということです。

この議論は、アイデンティティの評論文などでよく取り上げられますね。

例えば、「とにかく明るい」という自分の個性と思わしい特徴があったとしましょう。

あの人はとにかく明るいと言われれば、それはもう個性だし、「私」は存在しているというかもしれません。

しかしそれは、周りの人に自分より明るくない普通の人、どんよりと暗い人がいるからこそ、なのです。

そういう人がいるからこそ、自分は「明るい」とみなされるのです。

自分単体が明るいわけではないのです。

これが「私」が相対的な存在であるということ。

そして絶対的な存在ではないということです。