日本初のラップ歌詞「俺ら東京さ行ぐだ」

【吉幾三/俺ら東京さ行ぐだ】面白いラップ歌詞を紹介!田舎が嫌で東京に出てきた吉幾三の実話だった?!の画像

吉幾三は日本を代表するシンガーソングライターです。

演歌歌手でありタレントでもあり作曲家でもある彼はマルチな才能を発揮しています。

また彼には意外な面があります。

それがラッパーであること。

「え?ラッパーなの?」と驚かれるかもしれません。

今では演歌歌手のイメージが強い彼ですので尚更ですね。

実は彼は元祖日本語ラッパーとも言われています。

そのきっかけとなったのが今回ご紹介する「俺ら東京さ行ぐだ」なのです。

この曲が生まれた経緯を紹介

すこしだけこの曲が生まれた経緯を紹介します。

もともと山岡英二という芸名で1973年にデビューしましたが全く売れませんでした。

売れない時期は喫茶店でアルバイトをしていたとか・・・。

しばらく不遇の時代を過ごしますが、1977年に吉幾三の名前に改名再デビュー

再デビュー曲「俺はぜったい!プレスリー」がスマッシュヒットします。

しかしまたもや売れない時期が続きます。

アメリカの音楽、ラップに影響を受ける

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売れない時期を打破すべく吉幾三は考えます。

「売れるためには他のミュージシャンがやってない事をやらなくては!」と思うようになりました。

そんななかアメリカに渡った知り合いから、アメリカのレコードを何枚か送られてきたのです。

その中に含まれていたのがラップミュージック

その影響を受けて生まれたのが「俺ら東京さ行ぐだ」でした。

しかしあまりにも前衛的だったのかレコード会社に見向きもされなかったようです。

彼を救ったのが千昌夫

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そんな状況の彼を救ったのが千昌夫でした。

吉幾三は以前に彼に楽曲を提供したりと、縁があったのです。

曲を聴いた千昌夫は「面白い!」と評価し、曲の原盤権を買取り、そのままプロデュース。

満を持して発売されたこの曲は記録的な大ヒットを飛ばしました。

海外の音楽を積極的に取り入れた吉幾三も勿論すごいです。

しかし、その楽曲のポテンシャルを見出した千昌夫もさすがと言えますね。

実話も含まれていた?日本初のラップ歌詞を紹介

実はこの歌詞、吉幾三が東京に出た時の気持ちを込めていた事がわかっています。

 彼の出身地である青森県北津軽郡金木町田舎ぶりに嫌気がさしている様子がわかります。

しかしその気持ちを当時では斬新なラップ調で歌うのが非常にユーモラス

あまりにも突飛な歌詞なため発売当初は地元から抗議があったのだとか。

ではその日本初のラップ歌詞を紹介したいと思います。

テレビも無ェ ラジオも無ェ
自動車もそれほど走って無ェ
ピアノも無ェ バーも無ェ
巡査 毎日ぐーるぐる
朝起ぎで 牛連れで
二時間ちょっとの散歩道
電話も無ェ 瓦斯も無ェ
バスは一日一度来る
俺らこんな村いやだ 俺らこんな村いやだ
東京へ出るだ 東京へ出だなら
銭コァ貯めで 東京でベコ(牛)飼うだ

出典: 俺ら東京さ行ぐだ/作詞:吉幾三 作曲:吉幾三

~も無ェで韻を踏んでいる

前半では得にそうですが、畳みかけるように「~も無ェ」と歌っています。

曲を聴いてもらえれば分かりますが、ラップをしているようにかなりスピード感があります。

当時の日本の歌謡界を考えるとかなり斬新な歌いだしだったと言えるでしょう。

またサビの部分も、さりげなく「~だ」で韻を踏んでいます。

このようにしっかりとラップマナーを取り入れている事がお分かりいただけたと思います。

吉幾三が上京する1968年当時の事を歌っている

歌詞を見る限り、東京に行く理由には十分なくらい何もない田舎という印象を持ちます。

しかしこの曲を聴いた地元民から抗議の声が多数寄せられたようです。

この曲が発売されたのは1984年。さすがに地元金木町にもテレビやラジオはありました。

地元の人からしたら、同郷の有名人に裏切られたと感じたのでしょう。

しかしこの曲はあくまで吉幾三が1968年当時の事を歌っています。

こうなると多少信憑性は上がりますね。

こまかい時代考証が出来ないのが残念ですが・・・。