坂本冬美(さかもと ふゆみ)とは

春に生まれたけど「冬美」って?

1967年3月30日生まれ、和歌山県出身。坂本冬美は本名で、生まれた季節は春だったのですが、肌が雪のように白かったことから冬美と名付けられたそうです。色白美人ならではのエピソードですね。

デビュー時に芸名が「冬」では寒々しいから、「ふゆみ」にしようという意見もあったらしいですが、「冬美」という名前とエネルギッシュな歌いぶりが、むしろ相乗効果となって楽曲の温度を上げていると私は思います。

中学・高校はソフトボール部に所属し、ポジションはキャッチャーでチームのキャプテンも務めたということです。そのころにはすでに演歌歌手になることを夢見ており、当時は石川さゆりのファンだったそうです。

デビュー前は会社員

そんな坂本冬美も高校卒業後は大阪市内のとあるレストランオーナー会社での経理担当を経て、和歌山の梅干し会社に就職し、塩分等の検査を調べるアシスタントをしていました。和歌山県出身の坂本冬美は、梅干しには相当なこだわりがあるそうで、紀州南高梅しか口にされないとか。地元愛も強そうです。

その後、NHKの「勝ち抜き歌謡天国」に出場し、和歌山大会で名人を獲得、「関西演歌大賞カラオケコンクール」に優勝するなどして頭角を現し、1986年ごろに上京し、故・猪俣公章氏から内弟子としてレッスンを受けるようになりました。

1987年に「あばれ太鼓」でデビュー

デビュー曲は「あばれ太鼓」で、80万枚を超えるヒットを記録。デビューして間もないころは「祝い酒」「男の情話」など男歌を中心に歌っていました

例えば「あばれ太鼓」の歌詞には、「男泣き」「男命」、「男の情話」の歌詞には「男なら」「男じゃないと」といった言葉が並んでおり、男の気持ちを歌ったものとなっています。なんとなく男前でキップのよさそうな坂本冬美らしいですね。

今は亡き忌野清志郎との接点も

意外なのは演歌歌手でありながら、忌野清志郎 RCサクセションのロックアルバム「COLORS」にも参加していることです。1991年には細野晴臣、忌野清志郎、坂本冬美の頭文字をとった「HIS」というユニットでアルバム「日本の人」を発表しています。

2006年の映像では3人とも学生服を着て、なんとあの伝説のロックギタリストジミ・ヘンドリックス「パープルヘイズ」のカバーを演奏しています。この学生服を着るというアイディアは忌野清志郎が出したものらしいです。

2002年から芸能活動一時休業

デビューから約5年を経過した2002年3月、持病のすい臓炎の治療など諸事情のために歌手業を含めた一切の芸能活動を休止しています。休業中は和歌山の実家に帰り、旅行や温泉などに行ってのんびり過ごしました。

旅行中は芸能人であるとまったく気が付かれなかったそうですから、芸能人のオーラのスイッチをまったく切っていたんでしょうね。このころには重病説や隠し子説など、あらぬ噂話がマスコミをかけめぐったそうです。

2003年4月に芸能活動を再開

「岸壁の母」を受け継ぐ約束も

休業からちょうど1年後の2003年4月、NHKの番組内で芸能活動の再開を宣言しています。そのきっかけとなったのは、実家の母の勧めで二葉百合子の65周年リサイタルの中の「岸壁の母」を聴いたことでした。

当時、引退を本気で考えていたという坂本冬美は、二葉の元でレッスンをはじめ、芸能活動への復帰を果たしました。二葉百合子からは「岸壁の母」を譲ってもよい、とのお墨付きをいただいているそうです。その経緯については「徹子の部屋」で語っています。