民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/ハレとケ
「ハレとケ」の考え方において、ケは「日常」とされます。
しかしハレにあるハッピーなイメージの対比として、ケは不浄や穢れであるというのが一般的です。
では「ケガレの唄」は不浄や穢れを表した歌なのでしょうか?
曲は和テイストの音階で優しく紡がれていきます。
歌詞も寂しさを含んだ優しさで満ちています。そこには穢れを感じる要素はありません。
ではどうして「ケガレ」の唄なのでしょうか?
ケガレとは穢れなのか?
もう一回会えたら 愛してくださいね
話したいことが たくさんあって悲しくなった
一人眠る 貴方がくれたこのケガレと
あの日の向こうへ あの日の向こうへ
出典: ケガレの唄/作詞:羽生まゐご 作曲:羽生まゐご
この歌詞から読み取れるのは、「ケガレ」が大切な誰かとのかけがえのない思い出なのだということです。
現世で受け取った優しい思い出は手放したくないもの。
しかし抱えたままだと苦しいばかりなのです。
だからこそ「ケガレ」と解釈して取り払わなければいけない。そんなふうに読み解けるのではないでしょうか。
「ハレハレヤ」は出会いという特別なハレを歌っているナンバーだと考えると、おそらくその対比。
「ケガレの唄」は特別な別れを歌う楽曲なのです。
またハレ舞台が特別な日であることを考えれば、ケは「日常」のひとコマだという解釈もできます。
つまり、別れは誰にでもやってくるということです。
そのとき抱くケガレがどれだけ大切かを歌った楽曲が「ケガレの唄」なのでしょう。
「ケガレの唄」で締めくくる理由とアルバムタイトルの意味
『浮世巡り』は、物憂げに「浮世」の姿を眺めながら旅をするアルバムです。
ままならない悲しさや寂しさをどこか優しく包んでくれるような和テイストの音楽とボーカロイドの声。
それが最大の特徴といえるでしょう。
浮世の旅の終わりが「ケガレの唄」なのはなぜか。
ケガレとして誰もが抱えている心の中の思い出を大切にしてほしいという意味だと考えられます。
出会いと別れが繰り返される浮世を描いた歌詞世界が特徴の『浮世巡り』。
まさにピッタリのアルバムタイトルだといえるでしょう。
もう一度『浮世巡り』に出かけましょう
特徴的な音作りと歌詞の乗せ方が大きく評価される羽生まゐご。
今までボーカロイドを避けてきたリスナーにも受け入れられるような作品を生み出し続けています。
『浮世巡り』は、ボーカロイドなしでは成立しなかったアルバムではないでしょうか。
それは世界観を作り出すためでもありますし、優しく包み込むためにも必要な要素だからです。
人が歌ってしまうとどうしても「個」が浮き彫りになってしまい「現世」ばかりに寄ってしまいます。
だからこそタイトルは浮世であり、主役はボーカロイドなのです。
アルバムの世界観を再確認したところで、もう一度『浮世巡り』に出かけてみてください。
きっと優しいケガレが貴方の心に残るはずです。
さて、OTOKAKEでは羽生まゐごの歌詞の世界を更に深掘りしています。
オススメの記事を2つご紹介しましょう。
まずは当記事でご紹介しきれなかった「懺悔参り」です。
懺悔、と聞くと背中を丸めた暗いイメージがありますが、この曲で懺悔するのは誰なのでしょうか。
羽生まゐご【懺悔参り】歌詞を解説!生きよう…迷っても転んでも…神様はこんなにも懺悔しているのだから - 音楽メディアOTOKAKE(オトカケ)
和のサウンドに乗せて「神様の心情」が歌われる楽曲「懺悔参り」。そこには他にない斬新な視点で人々の姿が描かれていました。この楽曲を通して羽生まゐごが伝えたいのは一体何なのか?一緒に読み解いていきましょう。
アルバムを締めくくる「ケガレの唄」。
アルバムの流れとは切り離して考察すると、また違った意味が見えてくるかもしれません。
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