なぜ「沖縄」?なぜ「老若男女」? MVの設定に込められた想いとは??
島=アイランドならではの海風や空気感を舞台に
MVの舞台に選ばれたのは、沖縄。
初夏の沖縄が選ばれたのは、決して風光明媚だからとか撮影映えするからとか、ありきたりな理由からではありません。
そこには、アーティストHAN-KUNのオリジナル楽曲へのリスペクトやレゲエへの想いが重層的に込められています。
まず何より、南洋の島=トロピカルアイランド特有の空気感や植生などの景観、海風など沖縄の地理的特性。
それらは、レゲエ発祥の地ジャマイカを想わせる多くの共通点を持っています。
加えて、沖縄独特の解放感や伝統的な文化、恵まれた自然環境に育まれたあたたかい人柄や感受性もその理由。
そうした要素も、この楽曲自体のイメージやコンセプトともごく自然にマッチするものといえるでしょう。
楽曲の「大きさ」「普遍性」を柔らかく醸し出す、多様な展開
このMVには、老若男女さまざまな世代にわたる人々が登場します。
一目で“しまんちゅ”と分かる95歳以上のおばあちゃんグループ。
ガチな雰囲気でグランドを駆け回る幼稚園児たち。
照れや恥ずかしさを隠しきれない制服姿の中学生。
よく観ると、悠然と散歩する猫や、海風に揺れる花々のクローズアップまで…。
なぜこれほど多様な世代の男女や、猫や花などの生き物にまで幅広くフォーカスを当てて、登場させたのでしょう?
その大きな理由として考えられるのが、『あなたに』という楽曲が描く世界観や愛情の大きさ、その普遍性です。
作詞に「自分」や「あなた」などのワードが使われてはいるものの、それは恋愛感情の枠に留まりません。
文脈をよくみれば、そこにより広く大きな愛のカタチ、「信頼関係の再生」が歌われているのに気付くはずです。
近すぎて見えにくい、夫婦や親子などの家族関係。
親友との絆など、人が一人では生きられない存在であること。
そしてその対象が広大な自然や他の生き物にも及ぶことも、この曲ではやさしく巧みに表現されています。
人間関係に悩み、時に相手を疑い、涙し、眠れぬ夜を過ごしながら、それでも「逢いたい」と思える喜び。
それら普遍的な愛をビジュアル化するため、世代や性別を超えた「笑顔」が映像として不可欠だったのです。
レゲエのオフビート感だからこそハマる! あるがまま、自然体の「ビビッドな表情」
「食べる」「話す」「遊ぶ」「踊る」人々のリアル描写
先ほどは登場人物の多様さにふれましたが、このMVではさらに多くの日常的な行動やなにげない動作が描かれています。
しかもその行動や動作は、「意識的に」かつ「リアルに」描写されているもの。
すなわち、ロコフードを「食べる」、おばあちゃんと「話す」、いっしょに「踊る」などのシーンが延々続きます。
それらが、ショートバージョンではわずか3分半ほどの映像の中にこれでもかと詰め込まれています。
そこにははたしてどのような狙い、メッセージが潜んでいるのでしょう?
決して特別ではない喜びや悲しみの凝縮が、「歌」になる
そうしたスライス・オブ・ライフ的シーンは、クライマックスに向け、ライブ会場シーンへと繋がっていきます。
そこに感じられるのは、歌や、歌うという行為は日々の感情やささいな出来事から生まれるエッセンスとの想い。
つまり歌は、「決して特別ではない人間の、特別ではない喜びや悲しみなどを分かち合うもの」なのだと。
そんなHAN-KUNのハートウォーミングなメッセージが、そこに込められているように思えてなりません。
そしてレゲエこそ、等身大のドラマをあるがままの魅力的な姿で表現しうるスタイルなのだという確信まで。
それは、レゲエアーティストとしてのHAN-KUNの「自負とプライド」に裏打ちされたものといえるでしょう。
原曲ファンも泣かせる、 HAN-KUN流エスニック・スパイス
島に「降り立つ」トップカットの演出意図は?
ここで全体のMVの構成に戻って、全編を見てみましょう。
トップカットは、飛行機の窓から垣間見える沖縄の景観です。
そこでは、あえて「旅行者としてのHAN-KUN」が描かれています。
つまり、どこかからわざわざ移動してきたことを印象付けるものとなっています。
それがこじつけでないことは、フラッシュカットに続く島でのスタートが「バス停」であることからも明らかです。
この設定には「ロードムービー仕立て」というコンセプトを超えた、楽曲への“忠実さ”さえ感じられます。
その楽曲への忠実さとはどういうことでしょう?
それを紐解く鍵は、歌詞の中にあります。