色鮮やかなhideが放つ

私たちの輝くhide

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1998年、私たちの前から突然姿を消してしまったhide

X JAPANHIDEソロとしてのhide、そしてhide with Spread Beaverhide

いろいろな“顔”を持ちひときわ異彩を放っていたhideは、生前から多くの人々に影響を与えました。

今では、hideへの憧れを胸に抱きながらプロになったアーティストたちも活躍しています。 

hideの遺した言葉たち

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どうして私たちはいまだにhideに惹きつけられ、輝きもあせることがないのでしょう?

hideは独自の感性を持ち、少年のような好奇心も持ち続けていました。

流行に左右されることのなかったそのヴィジュアルは、亡くなって20年たった今も時代の経過を感じさせません

hideの音楽は良い意味でおもちゃであり、楽曲はいわばおもちゃ箱。

そして引っくり返せば何が出てくるのか分からないびっくり箱でもありました。

そんな楽曲に乗せられた遊び心あふれる歌詞たち。

単純でストレートな言葉や深い意味を持つ言葉など表現はさまざま。

そのhideの言葉・メッセージも私たちをひきつけてやまない要素の1つなのです。

そこで、そのhideの遺した名言・伝説にスポットを当ててみましょう。

難病の少女との出会いで生まれた言葉

「オレの“ダチ”」

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時を遡ることそれは1995年。

当時、余命宣告を受けるほどの世界でも症例の少ない難病と闘いの真っ只中にいた貴志真由子さん

成功率も低い手術を目前に彼女の母親はとあるボランティア団体と出会います。

そのボランティアは“難病と闘っている子供達の夢を叶える”ということを目的とし活動していました。

X JAPAN、そしてhideのファンであった彼女の願いはそう「hideに会いたい」ということ。

当初は事務所に断られてしまったものの、偶然事務所に居合わせたhideにスタッフは喝を入れられてしまいます。

「そいつはオレのダチだ」とhideは言い、こちらから連絡を入れるようhideはスタッフに催促。

そして年末の東京ドーム公演で「hideに会いたい」という夢を彼女は叶えたのです。

その後も彼女との交流は続きました。

ダチだから、会えない時は手紙や電話。

なんと危篤状態の時はスケジュールをすべてキャンセルし、ダチである彼女に会いに行ったのです。

hideのいう「オレのダチ」とは1度きりのパフォーマンスや上辺だけのものではありませんでした。

“ダチ”というたった2文字の言葉には、hideの友情や愛情などいろいろな心が詰まっているのです。

「できることをするだけ」

真由子さんとの出会いをきっかけに、今度はhideが行動を起こします。

骨髄バンクにドナー登録をしたのです。

当時骨髄バンクは今ほどメジャーではなかったせいか、記者会見も行われました。

しかしその記者会見で事件が勃発

記者会見はhideの知らない間にセッティングされ、個人的に行った行動が大々的に報道されてしまったのです。

それを「売名行為じゃないか!」とhideは激怒。

と、そんなこんなで生まれたのが「できることをするだけ」 という言葉なのです。

そして生まれた「MISERY」

闘病中の人と同じ立場で苦しみを分かち合うことはできませんし、代わってあげることもできません。

しかしどんな些細なことでも私たちにできることは必ず見つかります

「できることをするだけ」

ちょっとぶっきらぼうにも感じられる言葉ですが、この言葉がすべてというかhideなりの照れ隠しでしょう。

そしてもう1つhideがしたこと。

彼女との出会い、交流を通してhideの代表曲「MISERY」は生まれたのです。

痛みや悲しみなんてちっぽけなことは受け止めてしまえばいい…

そんな歌詞のこの楽曲は筆者にとってもお守りといえる楽曲の1つです。

1998年にhideが亡くなり、わずか2年半の交流でしたがhideはたくさんのものを彼女に遺したでしょう。

そして2009年9月、真由子さんは“ダチ”の元へと旅立ちました

ファンへの思いから生まれた言葉

「YOSHIKIは雲の上の存在でいいんだ、だから俺はファンに近付きたい」

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