そんな混沌とした日々の中できらめくもの。
それは相棒と心通ったときのワクワク感や信頼、安心や尊敬。
「こいつとならどこまでも行ける」と思えるような二人の間にある感情が「きらめき」なのでしょう。
食べ尽くす、くたばるという表現はどこか乱暴な印象を受ける言葉。
心通わせることのできる相棒との日々を大事にとっておくのではなく、荒っぽく貪欲に全てを楽しみ尽くす。
その先にいつか待っている死や別離さえ恐れない…。
そんな相棒同士の姿が見えてきます。
言うまでもなくこれは伊吹と志摩の、言葉にしない思いに重ねられていると読み取れます。
そして二人はここで足を止めることなく、さらに先へと走っていくのです。
誰も追いつけないスピードという表現からは、足の速い伊吹の姿が浮かび上がります。
また、初動捜査を行い誰よりも早く現場に向かう機捜という姿も重なってきます。
「感電」と「返事を求めない」理由
稲妻の様に生きていたいだけ
お前はどうしたい? 返事はいらない
出典: 感電/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
稲妻という言葉で表現される生き様。
稲妻といえば光や激しさ、目にもとまらぬ速さなどを思い起こさせます。
それ自体が「機捜」というあり方を想起させますが、さらに踏み込んで考えてみましょう。
稲妻を見ていると曲がったり逆方向へ進んだりと、まっすぐに目的地に向かっていないことがわかります。
これは稲妻が放電しやすい場所を次々と探し、そこへと放電して光を伸ばす性質から来ています。
その性質はどこか真実を求めて走り回る刑事の姿に重なります。
行き止まりや回り道でも、手を伸ばせる場所へ手を伸ばす。
そして最後には必ずどこかへ辿り着く。
そういった生き方はがむしゃらで野暮ったいかもしれませんが、まさにそれを「雷に打たれた」ように感じた。
「感電」というタイトルからは、そんな物語が読み取れるのです。
人と出会い、衝撃を受けることを雷で表現するのは「春雷」でも見られた言い回し。
志摩は伊吹に、伊吹は志摩に出会うことで相手の稲妻のような生き方に「感電」したのです。
心の奥底を揺さぶられたからこそ、相手の想いが魂で分かるような心地。
出会い、ぶつかりあい、影響を受け合って「感電」しあった相手。
そうした相手と出会えた時、もはや「返事はいらない」のです。
メロウな結末を目指して
迷子の子猫とついてない夜
転がした車窓と情景 動機は未だ不明
邪魔臭くて苛ついて 迷い込んだニャンニャンニャン
ここいらで落とした財布 誰か見ませんでした?
馬鹿みたいについてないね 茶化してくれハイウェイ・スター
出典: 感電/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
「動機」という言葉がこちらも警察を思い起こさせる一説。
「ニャンニャンニャン」の後にはこちらも猫の鳴き声がサンプリングされ、お洒落で遊び心のある印象です。
「犬のおまわりさん」に倣えば、猫は「迷子の子猫ちゃん」。
ですがここでは主人公たち自身のことを表しているように感じられます。
真実を追うもうまくいかず、苛ついて迷子になる。
財布は「大事な落とし物」や「忘れ物」を象徴しているといえるでしょう。
何か大切な証拠や情報を見落としているのではないか。
あるいは、自分の大切な思いや矜持を忘れてきていないか。
探すものは見つからず、大事なものは見当たらず散々な状況です。
それでも茶化すだけの余力があるのは、共にいる相棒の存在があるからでしょうか。
喧嘩の先にあるメロウな物語
よう相棒 もう一丁 漫画みたいな喧嘩しようよ
酒落になんないくらいのやつを お試しで
正論と 暴論の 分類さえ出来やしない街を
抜け出して互いに笑い合う
目指すのは メロウなエンディング
出典: 感電/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
洒落にならないような喧嘩をし合う相棒。
お試し、といえど本気でぶつかり合えるのは、そこに信頼があるからです。
そして、正論と暴論。
「MIU404」になぞらえて言えば、志摩は正論、伊吹は暴論側とも言えますが、それ以上の意味もありそうです。
SNSや動画サービスにより、誰もが正論も暴論も発信できるようになった社会。
そんな中を生き抜き笑ってみせる、タフな姿が感じられます。
さて、ここで登場する「メロウなエンディング」はどういった意味を持つのでしょうか。
「メロウ」は果物や酒などが円熟したことを示す言葉。
転じて、ものごとが円熟したようすを指す言葉としても使われています。
そこから解釈すれば、メロウなエンディングは「物語の大団円」。
皆が幸せになれるハッピーエンド、と解釈できます。
魂を動かすものを求めて
届かなくても探す永遠
それは心臓を 刹那に揺らすもの
追いかけた途端に 見失っちゃうの
きっと永遠が どっかにあるんだと
明後日を 探し回るのも 悪くはないでしょう
出典: 感電/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
「それ」とあるのは、1番のサビと同様に稲妻をイメージしていると考えられます。
落雷のように、急に衝撃を与えるもの。
けれどその正体を掴もうとすると見失ってしまうのです。
刹那と対比されるように描かれる「永遠」。
それこそが「メロウなエンディング」であり、「犬のおまわりさん」たちが迷いながらも探しているものなのでしょう。