冷たく嗤う石畳その額を擦り付けて
いついつまでも飽きもせずに朱の口に捻じ込む
それは正に独り善がり 味見もせぬ餌と同じ
辺り一面は吐瀉(としゃ)の海 気づかず入水 揺蕩う
行きも帰りも無い 百度踏めど 振出の壱
出典: 手纏ノ端無キガ如シ/作詞:不明 作曲:不明
著者の解釈が正しければ、主人公は自らを痛めつける行動を行っているのだと考えられます。
「朱」から想像するに、吐血して赤く染まった状態なのかも。かなり痛々しい場面です。
どんどん口に詰め込んでいる…と解釈すると、過食症のように何か口へ運ぶ行為に依存しているのではと感じました。
歌詞をそのまま現代語に直してみると、口へ入れてたものを周囲へ吐き出し、その中でゆらゆら揺れている状況なのでは。
主人公は苦しみを紛らわすために中毒状態に陥っており、そこから抜け出せません。
ループのように前進したかと思えばまだスタート地点。
つまり一歩も進んでない、進歩も進展もしていないという「生きながら死んでいる」ような状態。
果たして主人公はどうなるのでしょうか。
苦し気な言葉が並ぶ
跪き手を合わせ天(そら)高々に仰ぐ
虚ろな目(まなこ)が泳げば 溺死も戯れに
疾うに蝕まれていた 食傷気味の痛み
未だ賽は手の内で踊る
出典: 手纏ノ端無キガ如シ/作詞:不明 作曲:不明
あれだけ呼びかけ、助けを求めたにも関わらず「神」は手を差し伸べてはくれません。
主人公が空を見上げているのは、自分に一向に応えてくれない「神」を意識しているのかも。
自分を傷つけ、これ以上ないというどん底にいる時でも救ってくれない「神」。
人間を弄び、残酷な運命に置き去りにしたまま。
主人公は「神」という存在を信じるのをやめ、絶望しています。
誰も手を差し伸べてくれず、このまま落ちていくだけ。
本当はどこかで分かっていたのかもしれませんが、「神」を最後の心の支えにしていたのでしょう。
それが崩れ去った時、主人公には何が起きるのでしょうか。
『手纏ノ端無キガ如シ』故に
繰り返す
空を切るだけの無意と知りつつ
迷い子の手を引いて
繰り返す 繰り返す
『手纏ノ端無キガ如シ』
故に跪く
出典: 手纏ノ端無キガ如シ/作詞:不明 作曲:不明
タイトルである『手纏ノ端無キガ如シ』とはどんな意味でしょうか。
これは、何度も同じことが繰り返される状態を、端っこの無い手毬が転がる様子に例えたものです。
クルクルと回る手毬には終わりも無ければ始まりもありません。
「神」は自分を救ってくれないと思い知った主人公は、ループするが如く襲ってくる苦しみを受け入れようとしているのかもしれません。
どうして「迷い子」が登場するのかは良く分かりませんが、自分と同じような立場の子供と身を寄せあいたい…
せめてもの慰めに孤独を紛らわしたいと思っているとも考えられそうです。
己をさらけ出す痛み
吐き出した言の葉に命が宿る程
己を曝け出す痛みに慟哭(どうこく)を謳えるのなら
数え歌を置き去り彼方から目を逸らし
唾を吐き捨て 賽を振る
然(さ)らば
出典: 手纏ノ端無キガ如シ/作詞:不明 作曲:不明
「言霊(ことだま)」という言葉があります。
それは文字通り、言葉に魂が宿ってその通りに物事が運んでしまうといった事象のこと。
主人公は、自らの苦しみや悲しみを言葉にして表現するようになったようです。
呪詛のようなそれはいつしか力を持つように…
これまでの主人公はただひたすらに受け身の状態でした。
「おお神よ…」
と嘆くばかりだったということが前述した歌詞から分かりますよね。
ここでは、そんな姿勢を改め自分で道を切り開く姿が描かれています。
「賽」を「振られる」側から「振る」側へと変化しようというわけですね。
酒井さんが言っていた「神頼み糞喰らえ」というテーマ。
最終的に主人公が、いるかいないのかも分からない「神」へ願うよりも、自分で行動しようと変化することで表現されているのでしょう。
最後に
苦しみの果てに神ではなく自分を頼りに歩き出す曲
辛い時、苦しい時…事態を良くしようとするエネルギーも湧かない時がありますよね。
そんな時、「誰か」に頼りたいところですが、いつもいつも他人から助けてもらえるわけではありません。
厳しいですがそのことに気づけたのなら、新しい一歩をすでに踏み出しています。
強くなり、エネルギーを蓄えて自らの足で歩き出してみてください。
そういったメッセージが感じられる楽曲だなと著者は思いました。
この記事で述べた考察は、実際の作詞者が意図したものとは違っていることがあるかもしれません。
ご自身で改めて聴いてみて、歌詞の意味を探ってみてはいかがでしょうか。