いったい何があったのか
物語のはじまり
溶け出した琥珀の色
落ちていく気球と飛ぶカリブー
足のないブロンズと
踊りを踊った閑古鳥
出典: vivi/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
カリブーは北アメリカ産のトナカイ、閑古鳥はカッコウです。
空を飛ぶ気球は地面へ、地上を駆るトナカイは空へ。
ちぐはぐな情景の並ぶフレーズは正に天地がひっくり返るような出来事が起きたことを示しているのでしょうか。
足がなくなり立つことの出来なくなったブロンズ像は、その結果を意味しているのでしょう。
閑古鳥をカッコウと書きましたが、さびれた様子を表現する『閑古鳥が鳴く』という慣用句があることを考えると鳴くばかりか踊りを踊るということは、さびれている状況を強調しているとも捉えられます。
忙しなく鳴るニュース
「街から子供が消えていく」
泣いてるようにも歌を歌う
魚が静かに僕を見る
出典: vivi/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
天地がひっくり返るような大きな出来事が生じたことで、ニュースが騒がしくなります。
ニュースの中では未来を担う「子供」たちが次々に街を去っていくことも伝えられます。
「街」から出て行くのはもう「街」では暮らせないからでしょうか。
それとも「街」の外に平穏を求めたのかもしれません。
泣いているように歌われる「歌」は祈りの歌か、鎮魂の歌か。
「魚が静かに僕を見る」というフレーズでは「僕」はどうするのだと問われているように感じられます。
どうにもならない心でも
あなたと歩いてきたんだ
出典: vivi/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
問われた「僕」は決断を迫られます。
「あなた」つまりは「ビビ」とこれまで一緒に生きてきた「僕」はどうするのか…、それは歌詞の中に出てきていましたよね。
言葉を吐いて
体に触れて
それでも何も言えない僕だ
愛してるよ、ビビ
愛してるよ、ビビ
さよならだけが僕らの愛だ
出典: vivi/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
「ビビ」に対して語りかけてもその体に触れても、本当に言いたいこと言わなければならないことは何も言えずにいます。
「愛してる」ただその言葉だけを繰り返して、けれどその愛の向かう先に待つのは「さよならだけ」。
抗えない別れが迫っています。
『天地がひっくり返るような出来事』とは?
天地がひっくり返るような出来事が起きたのだろうと解釈の中で書きましたが、2011年の東日本大震災を指していると解釈する人も多いです。
「vivi」の収録されたアルバム「diorama」が発売されたのは2012年。
そしてアルバムのジャケットに描かれているのはナマズの上に建つ街です。
日本においてナマズと地震は無関係ではないのです。
地震は大ナマズが地下で活動するからだという民間信仰が日本にはあり、ナマズが暴れると地震が起きるなんていう伝承もあります。
これを考えると、「vivi」と震災がまったくの無関係とは言えないのかもしれません。
「vivi」の意味
イタリア語やフランス語などに接頭語として『vivi-』がありますが、語源はラテン語の『vivus』と思われます。
『生きて』、『命』など生命を意味する言葉です。
別れを告げた愛する相手の名前が「ビビ」なのは、別れたあとも生きて欲しいという願いが込められているのかもしれません。
愛しているよ、ビビ 明日になれば
バイバイしなくちゃいけない僕だ
灰になりそうな まどろむ街を
あなたと共に置いていくのさ
出典: vivi/作詞:米津玄師 作曲:米津玄師
「灰になりそう」=失われてしまいそう、「まどろむ」=意識の曖昧な様子と捉えると「街」の状況はずいぶんと不安定で生命力が感じられません。
そんな街を「僕」は立ち去るのです、「ビビ」を残して。
生きていけるのかもわからないような街に大切な「ビビ」を残していくのは相当な不安があることでしょう。
それでも生きて欲しい、生き抜いて欲しいという願いがビビ(vivi)という名前に込められているとしたら。
避けられない別れを嘆く歌詞の中で、ほのかな希望をタイトルに残したのかもしれませんね。
まとめ
驚天動地の出来事が、とある街を襲います。
街はもう虫の息。
日々の暮らしも危うくなった人々は次々に街を出て、人の姿は減っていき街には爪痕が生々しく残るばかりです。
「僕」も生きていくために街を出る選択をしなければなりません。
けれど「ビビ」を連れて行く余裕まではありません。
置いていかなければならないのです。
これまで一緒に過ごしてきた愛しい「ビビ」を、明日の暮らしも危ういだろう街に置き去りにしなければなりません。
けれど「ビビ」に別れを告げる勇気が出ません。
口にできないなら手紙にしようと共に生きてきた日々を思い出して、その日々の美しさに言葉が詰まります。
それでもなんとか言葉にしようと努めても、上手く言葉にできないばかりか出てくるのは言い訳のような何が言いたいのかわからないものばかり。
「ビビ」の体に触れて、話しかけても本当に言わなければならないことは何一つ言葉にできません。
「愛してるよ」「愛してるよ」と繰り返す言葉も「僕」にとっては言い訳に思えたかもしれません。
「ビビ」への愛しい思いも、行き着く先は別れなのです。
別れの待つ明日になれば、ふれあっている今日の「僕ら」はいなくなってしまいます。
大切なことを何も言葉にできないままのよくわからない話も苛立ちのあまり投げてしまった言葉も忘れてほしい、なかったことにしてほしいと告げます。
そうして言わなければならないことを何一つ言い出せないまま、「僕ら」の時間は終わってしまいます。
ただ生きてという痛切な願いが「僕」の心にはあるのでしょう。
それはきっと、生きていればまたいつか再会できるのではないかという小さな小さな希望なのではないでしょうか。