一石を投じる
批判ばかりの世の中で
こんな豊かな毎日を
今までくれてありがとうと
一番先に言うべきなのに
まるで逆の事を言ってしまうんだ
出典: Appreciation /作詞:槇原敬之 作曲:槇原敬之
事故が起こって電力会社が批判されました。
正直なところ、それは仕方がないことだと思います。
その余波を受けて計画停電も実施されました。
その結果、電気のありがたみを実感した人もいたのではないでしょうか。
少なくとも作者はそう感じたのでしょう。
そうして周りを見てみると電気を使用するネット上で、テレビで電気に対する批判が相次ぐ。
なんだかおかしいなと、感じてしまったのかもしれません。
もっともこの歌の書き方だと感謝の強制のように思えてしまうのも事実です。
その人達は電力会社を批判しているのであって電気を批判しているわけではないのでしょう。
とりわけ被害を受けた人から見れば感謝なんて巻き起こるわけもありません。
しかし、そうして批判が大多数の意見を占める中だからこそそれに一石を投じた。
そんな風にも思えてしまいます。
この一石は原発問題に限ったことではないだろうとも。
人間は1人では生きていけない
人は1人では生きていけません。
道徳のように思えますが事実です。
サラダ1つ食べるにしても生産する人、運搬する人、販売する人。
多くの人の働きの先に成り立ちます。
何より野菜が育つためには土も水も気候も必要。
普段は自分たちの都合の良いように自然を利用していますがいつでもそうできるわけでなく。
むしろ制御など決してできないと気づくのです。
支配などできない
人は自然を自分達の
都合で形を変えて
利用しているだけなのに
共存していると何故言える?
出典: Appreciation /作詞:槇原敬之 作曲:槇原敬之
大震災のことを自然のしっぺ返しという人がいました。
近代以降、人は自然を支配する形で科学を発展させていきました。
森を開き海に土地を広げ、暗い夜にも逆らって明るい夜をつくり。
自分達は自然を思うままにできていると錯覚しそうだけれどそうではありません。
結局のところ人間は自然の脅威にはいつまでたっても敵いません。
その事実を改めて突き付けられた災害でした。
「自然に優しくしよう、自然と共存しよう」。
よく聞くフレーズです。
しかしこの自然とはいったい何を指すのか。
今より濃度の高い二酸化炭素も高い気温も地球が今まで経験してきたことです。
地球は経験してきたことでも人間が経験してきたことではありません。
そんな環境では人間が生きていくことは不可能です。
結局のところこの自然は、「人間が生存していくための自然」を指すのではないでしょうか。
つまりは自分たちにとって都合のいい自然です。
自分達の都合だとしてもその結果守られるものがあるのならばそれを悪くは言えません。
しかし、自然の一部であるところの人間が自然をコントロールできるはずもないのです。
せいぜい利用するに留まるのみでしょう。
犠牲の上で生きている
いろんなものの命をもらう
事でしか 生きてはいけない
そんな弱い生き物だなんて
見えないくらい我が物顔だ
出典: Appreciation /作詞:槇原敬之 作曲:槇原敬之
寒すぎる気温でも、暑すぎる気温でも人は生きていけません。
服や道具の力で気候に適応しているだけです。
植物、動物、何かの命を食らっていかないといずれ命を落とします。
熊や虎に真正面から襲われたらまず死にます。
食物連鎖の頂点に立っているように思える人間。
しかし、生身で挑んで勝てる生物なんて少ないもの。
気候で打ちどころが悪くて病気で、あっさり死んでしまう人間です。
けれどもそれを意識することは少ないように思えます。
食べるということ自体がたくさんの過程と犠牲で成り立っていること。
人は1人では生きていけないくらい弱い生き物です。
「Appreciation」とは
その批判には実があるか
「よりも」というのは比較の言葉です。
比較するならばその対象は両方とも手に負えないものということになります。
長い年月がかかるといわれている土地の汚染の浄化、原子力発電所の撤去作業。
福島の風評被害は何年たっても続いています。
壊れてしまった原発は手に負えません。
壊れていなくとも廃棄物処理の問題があり、手に負えていたわけではありませんが。
それ以上に手に負えないものが当たり前に毒された人々の心という言葉。
事故の被害を考えれば原子炉よりも手に負えないなんて、失礼だとも思ってしまいます。
そもそも事故を起こす体制が悪いのに感謝など言えるかとも。
ところで原発事故について批判してそれで電気の暮らしはやめましたか。
その当時は自粛しても1年たったら今まで通りに過ごしているのでは?
反対ならば電力会社を変えるなどいろいろな方法があります。
もしも言葉で批判だけして何もせず便利な生活を当たり前のように享受しているのならば。
その言葉はとても空虚に聞こえてしまいます。