反戦の想いをストレートに綴り
昭和歌謡を語る上で欠かせない一曲
お涙頂戴を意識した従来の作品とは全く異なる【岸壁の母】。
昭和29年、藤田まさとさんが戦争に翻弄された1人の女性をモデルに作詞しました。
その詞に感銘を受けた平川浪竜さんは、直ぐに作曲。
翌日には、レコード化の準備が進められました。
レコーディング当日、歌手の菊池章子さんは、歌を通じて端野いせさんの悲劇を痛感。
とめどなく涙が溢れてきたそうです。
昭和47年には、二葉百合子さんがカバーし、浪曲風の【岸壁の母】を発売。
再び、奥深い詞が評価され、大きな反響を呼びました。
ネット上での反応は…
Twitterで検索してみたところ、反戦歌として話題になっていました。
リアルな表現がリスナーの心を震わせているようです。
大人になって鑑賞する中、改めて詞の世界観に感動したエピソードを投稿している方が散見。
時代が移り変わっても、戦争根絶の想いは、受け継がれるのでしょう。
息子の復員を待ち続ける母
幾度も岸壁に向かい
詞は、実在の人物・端野いせさんの体験を題材に。
終戦後の人々の苦悩が物語調で綴られています。
母は来ました今日も来た
この岸壁に今日も来た
出典: 岸壁の母/作詞:藤田まさと 作曲:平川浪竜
冒頭の歌詞は、息子さんの生存を信じていた端野いせさんの姿。
およそ6年間、端野いせさんは、引揚船の情報を耳にする度、舞鶴の岸壁に立っていました。
繰り返す”今日も”と”来た”は、何度も何度も岸壁に向かう様相を際立たせています。
岸壁の母(がんぺきのはは)とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/岸壁の母
当時、端野いせさん以外にも沢山の岸壁の母が存在していたのです。
その大勢の人々の悲痛な叫びをフレーズ1つ1つが体現しています。
高鳴る鼓動
京都府舞鶴市に在る舞鶴港。
終戦を契機に、戦地から引き揚げた約66万人の兵士を受け入れていました。
端野いせさんは、帰還した兵士と家族の再会を数え切れないほど目の当たりにしたことでしょう。
あんな風に、いつの日か私の息子も帰ってくるわ。ああ、早く息子の顔が見たい。
胸を高鳴らせながら、岸壁に立っていたのではないでしょうか。