東大紛争は様々なセクトやノン・セクトと呼ばれるこれまたセクトが入り乱れる学園紛争です。
東大生でもあった演劇人の芥正彦は「全共闘は政治の演劇化だ」と喝破しました。
全共闘だけが学生運動を担った訳ではありませんがこの時代における演劇や言葉の力を知る思いです。
語り手は橋本治の著名な言葉に手を加えて少女を説得しようと努めます。
この描写はまだまだ続きますので先を見ていただきましょう。
演劇にこだわり抜く語り手
シンジュク・モナムール
咲いてるうちよ 散ったら負けよ それだけよ
花芝居なら演じてよ シンジュク・モナムール
出典: シンジュク・モナムール/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
歌詞こそ変わっていますが状況は先ほどと同じです。
謎の語り手が少女の自殺を食い止めようと必死に声をかけています。
ただ、ここでも語り手は演劇にこだわり続けるのです。
花の生命というものと芝居の中の生死を重ね合わせます。
本気の自殺志願者は死後に負け犬と呼ばれようが構わないと考えるものです。
もう取り憑かれたように死に向かってひたすら走ってしまう人は確かにいます。
しかし悲劇の主人公として愛されたいという願望に駆られているこの少女はそこまで切迫していません。
別れたかフラれたのかは明示されないのですが相手への当て付けとして死んでみせると意気がっています。
語り手も警察等に相談する前に、悠長な演劇論をぶつけているのですからどこか呑気です。
しかし性急なビートだけが忙しなくリスナーの心を不安にさせます。
本当にひとときの気の迷いで終わるのでしょうか。
演劇の街・新宿
オオカミ少年の結末は悲劇
四月一日四月馬鹿 少女は死ぬってうそぶいた
どうせ道化てみせる紅テント 天井桟敷から覗いた青空だ
出典: シンジュク・モナムール/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
少女の自殺を仄めかす言葉が虚言ではないかと見抜くところです。
特に精神的に未熟な時期の青少年に固有の演劇性というものがあります。
嘘をついて周囲を困らせてでもその場の主役になりたいと突飛なことをする悪い癖です。
「シンジュク・モナムール」の少女にもこうしたオオカミ少年的な要素があります。
最初は深刻に受け止められますが、いずれそっぽを向かれる日がやってくるのです。
ただしオオカミ少年は最後こそ本当に獣に襲われるという悲劇が待っています。
この「シンジュク・モナムール」での少女の運命はどうでしょう。
歌詞に登場する紅テントと天井桟敷については説明が必要なリスナーもいらっしゃるはず。
唐十郎が主宰する状況劇場は新宿の花園神社にテントを建てて興行をしました。
また東京都の中止要請を無視して新宿西口でゲリラ公演などをして世間をあっといわせます。
1969年1月3日、東京都の中止命令を無視し、新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建て、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行。200名の機動隊に紅テントが包囲されながらも最後まで上演を行った。これが世に知られる「新宿西口公園事件」である。上演後、唐十郎、李麗仙ら3名が「都市公園法」違反で現行犯逮捕された。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/唐十郎
騒がしい時代をさらに盛り上げた人で第一級の才能を持った人たちが新宿に集っていました。
天井桟敷は作家・歌人・映画監督としても有名な寺山修司が主宰した劇団です。
とにかく怖ろしいまでの才人だった寺山修司の周囲に集う人々がまた独特でした。
初期には横尾忠則がいましたし、最後の方では三上博史が加わります。
劇団のオーディションでは先輩たちが蛇やら何やらとにかくおぞましいものを突き付けてくるのです。
オーディション翌日もきちんと来てくれたのは三上博史だけでした。
寺山修司と天井桟敷の名声はワールドワイドなもので海外公演も多数あります。
それでも新宿ゴールデン街周辺の文化の中で生きていたのも確かなことです。
寺山修司は音楽界でもこれまた新宿と縁が切れないアーティストを手がけます。
浅川マキやカルメン・マキなど日本の音楽界のレジェンドたちです。
松永天馬はこうした天才かつ異才が集う新宿という街を愛していたのでしょう。
確かに松永天馬はいまの新宿に関しては否定的・懐疑的な言葉を残します。
しかし躍動感とバイタリティがあった頃の新宿への愛をこのようにしたためるのです。
少女のセリフが呼び起こす不安
客席は めくるめく 青空だ
演じるの天使のように 二度とはお目にかかりません
出典: シンジュク・モナムール/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
この箇所が解釈を分けます。
語り手ではなくて少女のセリフであることは確定的です。
少女はデパートの屋上で青空の下にいます。
ここで客とは詰めかけた観衆ではないと歌うのです。
青空を天使のように舞ってみせると息巻きます。
もうあなたとも会うことはないでしょうと捨てセリフを遺すのです。
問題はこの後にどうなったのかでしょう。
少女は確かにこういいましたが、実際にデパートの屋上から落下する描写はないので安心してください。
果たしてエイプリルフールの虚言だったで済んだのでしょうか。
天使の魂が憑依すると飛べるとさえ思い込んでも不思議ではないです。
彼女にそれだけの本気があったのかどうか、以降につぶやかれる語り手の言葉に注意しましょう。
言葉の罠にこだわる
シンジュク・モナムール
信じるもんか 傷つくもんか 泣くもんか
知ってくれるなお嬢さん この世は地獄だけどさ
出典: シンジュク・モナムール/作詞:松永天馬 作曲:松永天馬
自ら生命を絶ったものは天国には行けません。
自殺を仄めかす少女にとっては生きるも地獄だし、死ぬのも地獄です。
語り手の口調から読み解くと少女が実際に悲劇を起こしたことを信じたくないという思いが伝わります。
ただこの辺りの表現を語り手はわざと錯綜させるのです。
「シンジュク・モナムール」の最後まで読み込んでもふたとおりの解釈を可能にしています。
ひとつはすべてが虚構の演劇のような一幕でしたという読み方です。
反対に少女の言葉にも真実はあって、実際にデパートの屋上から身を投げたのだという読み方もできる。
松永天馬は非常に器用に迂回しながら実際に地面に叩きつけられて肉片となる場面は描きません。
それでも不吉な予兆のようなものが徐々に増えつつあるのが正直なところです。
語り手は何について泣かないでいようとしているのでしょうか。
実際に失恋を苦に自殺する人もいます。
しかも少年少女の死因での第一位は自殺です。
死を選んだ青少年の動機や原因は様々でしょうが、その中に失恋が含まれることは事実であります。
失恋を経験すると人は抑うつ状態に陥るものです。
うつ病とは違うのですが症状は似ています。
極度の不安に苛まれたり、悲しみに暮れるうちに人生の展望が開けなくなるのです。
この記事では松永天馬の思惑を解明することが第一でしょう。
そのため彼が仕掛けた言葉の罠というものでふたとおりの解釈が可能なことに最後までこだわります。
ドラマの結末を見出すのはひとりひとりのリスナーなのです。