バンプ「R.I.P.」に思いを馳せる

ザリガニ釣り、行きました?

そこに君が居なかった事 そこに僕が居なかった事
こんな当然を思うだけで 今がこれ程

出典: R.I.P./作詞:藤原基央 作曲:藤原基央

BUMP OF CHICKEN(以下、バンプ)の楽曲って、歌詞の意味が難解に感じる曲が多いと思いません?今回ご紹介する「R.I.P.」もその1つ。

こちらで引用しているのは冒頭の歌詞です。「居なかった?当然?は?どういうこと?」という疑問の声が聴こえてきそうですね……。

でもね、ものすごくいい曲なんですよ、「R.I.P.」。だから今回は徹底的に解説します!よかったらお付き合いください。

ダイナモの音 うねる坂道 憧れのギア いじった誰か
ザリ釣り帰り 謎のサーチライト 始まり探し 迷ったら夜

不思議が忘れるくらいあった そのいくつかの魔法はもう解けてしまった

長靴は嫌い 傘は大好き 重ねたらほら これ秘密基地
自転車置き場 会いに通った 尻尾の生えた内緒の友達

言えない事が今よりもあった 寂しいのは失くしたからじゃない

そこに君がいなかった事 分かち合えない遠い日の事
こんな当然を思うだけで すぐに景色が滲むよ

出典: R.I.P./作詞:藤原基央 作曲:藤原基央

<ダイナモ>っていうのは発電機のことです。まあ、この時点でチョット意味わかんないですよね。ここでは妙に具体的な物事がただツラツラと並べ立てられているだけだから。

でも、皆さん。この部分を聴いたら、自分の幼い頃を思い出しませんでした?

筆者は思い出しました。坂道を自転車で走ったり、ザリガニ釣りに行ったり、謎の光を追いかけたりしたこと。(謎の光の正体は飛行機で、追いつくワケがなかったんだけどね)

<秘密基地>とか<尻尾の生えた内緒の友達>に会いに行くのも、子どもならではの遊びですよね。

だけど大人になった今、それらはもはや<遠い日の事>。涙で<景色が滲む>のは、どんな想いがあるからなのでしょうか……。

バンプ「R.I.P.」歌詞の2つの解釈とは?

①亡くした人を偲ぶ歌

「R.I.P.」歌詞解釈の1つとして『亡くした大切な人を偲ぶ歌』だと思う人が多いようです。

体温計で ズルして早退 下駄箱に斜陽 溜息ひとつ
母の日の朝 父さんとシャベルで 尻尾のついた友達の墓

出典: R.I.P./作詞:藤原基央 作曲:藤原基央

<尻尾の生えた内緒の友達>が<尻尾のついた友達>となったのは、その子が生命を感じさせない"物"となってしまったから。

学校を<ズルして早退>したのは、亡くした<友達>の<墓>を掘った光景がフラッシュバックされて辛いから。本作品の中でも、このシーンは特に印象に残ります。

曲名「R.I.P.」とは、欧米のお墓に刻まれる言葉。『安らかに眠れ』という意味のラテン語が由来でしたが、それがいつしか『Rest in Peace』と英語で書かれるようになったそうです。

このことからも『亡くした大切な人を偲ぶ歌』だと考える人が多いんですね。

②大切な人と過ごす"とき"への愛おしさ

「R.I.P.」にはもう1つの解釈があります。それが『大切な人と過ごす時間への愛おしさ』

本作は、バンプのボーカルで作詞者でもある藤くんの「超個人的な思い出なんじゃね?」と思われる具体的な物事を並べることで、リスナーを幼少時代へと引き戻しています。

まあ、それは<魔法はもう解けてしまった>の一言で唐突にリアタイへ戻されるんですけど。

ちなみに「<魔法>ってなんなの?」というあなたは、ぜひバンプの「魔法の料理~君から君へ~」を聴いてみてください。幼い頃、傍に感じられた<魔法>を、あなたも思い出せるかもしれません。

で、「R.I.P.」の<尻尾の生えた友達>というのは、そんな超個人的思い出の1つに過ぎないんじゃないか、というのが筆者の考えです。<ダイナモの音>や<憧れのギア いじった>ん誰や、とか、そういった思い出の1つ。

悲しい事は宝物になった
君もきっと そりゃもう沢山持ってるでしょう

出典: R.I.P./作詞:藤原基央 作曲:藤原基央

このフレーズはつまり、

  1. <尻尾の生えた友達>を亡くしたのは<悲しい事>だけど、今は<宝物>のような思い出の1つだ
  2. <君>だって宝物のような思い出があるでしょ?

ということを言いたいのでしょう。

そこに僕が居なかった事 今は側に居られる事
こんな当然を思うだけで 世界中が輝くよ

出典: R.I.P./作詞:藤原基央 作曲:藤原基央

物心ついてから今日まで、私たちはたくさんの"出来事"を経験し、その1つ1つに"気持ち"を抱いて生きてきました。その"出来事"と"気持ち"を内包している"とき""空間"

『<君>の人生で一番辛く悲しい出来事があった日に<僕>と出逢っていれば、側に居ることができたのに』

過去、<君>が体験した"とき"は、言葉を通して教えてもらうことはできます。だけど、伝聞と経験とは全くのベツモノ。当時の記憶を共有できるわけではありません。

『だけど<今>からは<側>に居て、同じ"とき"を共有することができる』

今からは、悲しい"とき"はもちろん、嬉しい"とき"だって、一緒に過ごすことができるワケです。そうできるのがたまらなく愛おしいから、こんな<当然>のことを<思うだけで>、<世界中が輝く>ように思えるんですね。