「青春狂走曲」が発表された1995年は日本社会の曲がり角のようなものでした。
歌詞中の「いま」について考えると少し心暗くなります。
阪神淡路大震災・オウム地下鉄サリン事件などが連続して起きたのが1995年です。
日本社会が共有していた安全神話のようなものがもろく崩れ去りました。
またバブル経済の崩壊の影響が決定的に社会に浸透していった年でもあります。
僕は当然、こうした時代を生きている青年です。
曽我部恵一というアーティストは社会問題に関しても敏感な人でしょう。
しかし作品内で声高に何かの政治的なスローガンを掲げたりするような人ではありません。
個人の力では何もできないと思わせる時代の空気というものを柔らかく表現するだけです。
ライブなどでの熱い情熱のほとばしりを胸のうちに隠して微かに透ける程度の思いを打ち明けます。
僕は手に負えない思いは抱えていますが、生活をよくしてゆこうという決心までは捨てません。
どうにかいい方へと向かいたいのだけれど、これくらいが限度だよねと微笑むのです。
1995年の時代の空気というものは確かにこうしたものでした。
現代のリスナーの中にもこうした気持ちに共感できる人は多いはずです。
やるべきこと、解決すべきことが多すぎてため息が出るだけだという思いに近いでしょう。
街の風景を描く
陽気の気分が湧いてくる
夏の朝が僕に呼びかける
「調子はどうだい うまくいってるかい」
気分が良くなって外へ飛び出すんだ
出典: 青春狂走曲/作詞:曽我部恵一 作曲:曽我部恵一
サマーソングの顔をのぞかせます。
空気が冷えていたという描写との整合性については謎です。
1995年は長い冬のようだったという人もいます。
しかしそれは冷夏だったことを指すわけではありません。
あくまでも暗い事件が多かったことの比喩です。
ここでは僕が誰かに問いかけた言葉が自分に帰ってくるようなイメージを抱いてください。
僕だって誰かに気遣われていたいと願っている証でしょう。
元気かなと尋ねられると私たちは素直に大丈夫さと答えたくなるものです。
僕は朝の陽射しに大丈夫だよと答えるうちに本当に陽気さを取り戻します。
サニーデイ・サービスの歌詞は真夏の陽射しに打たれるという設定が多い印象があります。
特に「サマーソルジャー」という名曲が呼び起こすイメージは強烈です。
「青春狂走曲」でも同じように夏の日の街の中へ飛び出すという設定になっています。
曽我部恵一は街の情景を切り取るのが特に上手な詩人です。
夏の午前中の陽射しが目に見えるような描写をしています。
1995年ですから夏といってもいまほど過酷な猛暑の日は少なかったです。
心地よい空気の中、夢によって受けたダメージから抜け出そうと試みます
学生の延長にいるような性格
愉快な話どこかにないかい?
そんなふうなこと口にしてみれば
街を歩く足どりも軽くなるから不思議さ
出典: 青春狂走曲/作詞:曽我部恵一 作曲:曽我部恵一
暗い事件が多かった1995年で明るい話題は野茂英雄投手がメジャーリーグで大活躍したことくらい。
それでも笑顔を失わずに生きようとする思いというものが若者たちにはあります。
青春時代というのは些細な歓びであっても大袈裟に笑いあって生きるものです。
どんなに暗い時代であっても人びとの暮らしというものは否が応でも続いてゆきます。
その中には小さな幸せというものが必ずどこかにあるのです。
絶望というものは簡単には人びとを囚えはしないと思って生きたいものであります。
また僕には若者固有の好奇心が旺盛です。
自分から楽しいものを見つける力という少年期にあったものはまだまだ健在なのでしょう。
ここで僕はいったい誰に話しかけているのかは明示されません。
街ゆく人に片っ端から楽しいことありませんかと訊いて歩いている訳ではないでしょう。
とはいえ特定の誰かと一緒にいるとも書かれていません。
当時のリスナーはこの点を特に不思議に思いませんでした。
この頃のサニーデイ・サービスに、リスナーはまだ学生の延長のような面持ちを見ていたのです。
学園で誰ともいわず会話を交わしていたのかもしれないという雰囲気が自然にありました。
話しかける相手には事欠かない恵まれた若者の姿というイメージがぴったりです。
曽我部恵一はアルバム「24時」辺りで難解な表現に挑戦し始めます。
それまでの彼の作風は松本隆フォロワーのイメージが強かったです。
やさしい言葉で柔らかい表現をするアーティストでした。
細かい整合性にこだわる聴き方ではなくて、肩の力を抜いて付き合いたい楽曲を送り出します。
リスナーにとってサニーデイ・サービスの登場はまぶしい光のようでした。
若いファンが等身大の自分の姿を彼らの楽曲に見出していたのです。
バンドがくれた祝福
そっちはどうだい うまくやってるかい
こっちはこうさ どうにもならんよ
今んとこはまあ そんな感じなんだ
出典: 青春狂走曲/作詞:曽我部恵一 作曲:曽我部恵一
「青春狂走曲」という楽曲に青春という言葉は登場しません。
それでもこの歌詞に見られる「どっちでもない」ような状況が青春時代の歌であることを裏付けます。
僕の宙ぶらりともいうべき状態は青春時代に固有のものです。
何とかして生活をいい方向へ打開しようと頑張ってはいますが、中々その実を結びません。
しかし実際のサニーデイ・サービスはまさに昇る陽の勢いがありました。
はっぴぃえんどリバイバルに乗ってブレイクへの道をひた走っていたのです。
彼らの音楽性は徐々に濃さを増してゆきます。
直後のアルバム「東京」をステップにオリジナリティを確立してゆくのです。
歌詞の中の僕はゆっくりやってゆこうという姿勢を見せています。
しかしサニーデイ・サービスというバンドはどんどん勢いを加速してゆくのです。
この曲ではそうした必死な素振りをまだ隠しています。
こうした印象はこの当時の曽我部恵一の美学によるものでしょう。
実際の彼は確かな手応えというものを感じていたはずです。
これという根拠は示さずに僕も何とかいい流れに乗る雰囲気を醸し出します。
いまは宙ぶらりだけれどいつか何とかなるさとでもいいたげなのです。
希望というものは捨てない覚悟を描き出します。
アルバム「東京」とはオウム地下鉄サリン事件の舞台と同じです。
しかし全体に祝福に満ちた都市と若者たちの姿を描いてくれました。
リスナーはこうした祝福を届けてくれたサニーデイ・サービスに感謝を示しライブに足を運ぶのです。
最後に 大人になったいまも
丸山晴茂の訃報に触れて
きみに会ったらどんなふうな話をしよう
そんなこと考えると楽しくなるんです
出典: 青春狂走曲/作詞:曽我部恵一 作曲:曽我部恵一
歓びに満ちたラインですが、少し物悲しい響きをいま感じてしまいます。
曽我部恵一が話しかけたかっただろう、ドラムの丸山晴茂が2018年に47歳の若さで旅立ちました。
私たちは「青春狂走曲」をこの訃報とともに聴き遂げなくてはいけません。
再結成後に病気を患い闘っていた丸山晴茂。
私たちファンはいい報せが舞い込む日がくると祈っていました。
しかし長引く闘病生活の果てについに悲しいアナウンスが告げられます。
1995年の「青春狂走曲」発表当時、誰がこんな未来を予想できたでしょうか。
それでも丸山晴茂はサニーデイ・サービスでたくさんの音源を遺してくれました。
私たちはいまでも過去の音源の中で彼のドラムと対話することができるのです。
アーティストやクリエイターたちは作品というものを遺してくれる存在。
特に価値ある作品は忘れられることなく鑑賞されます。
自分が生きた青春の日々を将来に遺せる形で表現できるのですからうらやましいです。
丸山晴茂の思い出にいっぱい感謝したい気になります。
彼と会話するように「青春狂走曲」と向かい合いたいと思わされるのです。
私たちが笑顔で生きること、元気で生きることを彼はきっと応援してくれると勝手に願います。
逝去するということはその度ごとに世界がひとつ終わることです。
しかし幸いなことに私たちの人生はもう少し長く続きます。
丸山晴茂が記録した青春の日をいま一度温かい気持ちで振り返りたいものでしょう。