あたしの名前をちゃんと呼んで
身体を触って
必要なのはこれだけ 認めて
出典: http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=65586
誰かわたしの存在を認めて。ここにいることを、名前を読んで認めてほしい。実際にふれて生きていることを確かめてほしい。
アーティストとして認めてほしい、という本音も感じられます。
ハスキーな叫び声も合わさって、ヒリヒリと痛いフレーズですね。
自分の「罪」への「罰」としての病
歪んだ無常の遠き日も セヴンスターの香り 味わう如く季節を呼び起こす
あたしが望んだこと自体 矛盾を優に超えて
一番愛しいあなたの声迄 掠れさせて居たのだろう
出典: https://twitter.com/SheenaJihen_bot/status/896704939438755844
ここからの解釈は一気に難解になりますね。
遠き日のモヤがかかった感じと、セブンスターの煙をかけているのか、加えてセブンスターの香りで昔のことを美化して思い出すということなのか。
とにかく昔のことを思い出して後悔している様子が思い浮かびますね。
そしてその後の歌詞を見ていくと、世界の仕組みや原理を無視した自分勝手なことを歌うという「罪」に対して、
声がかすれて出なくなってしまうという「罰」を受けたという解釈ができます。
どうも宗教的な考えですが、両者にまったく関係がないとはいえませんね。
いつもとはちがう朝が突然訪れた
静寂を破るドイツ車とパトカー
サイレン 爆音 現実界 或る浮遊
出典: https://twitter.com/shenaringo_bot/status/848865196181422080
朝の静けさを突然破るドイツ車とパトカー。
ドイツ車が自分の乗っているベンツだとしたら、小部屋で孤独を甘やかしていた日々に終わりを告げたことを連想させます。
そしてパトカーのサイレン、ベンツの爆音が鳴り響きます。
「現実界」は哲学や心理学を学んでわかる方もいらっしゃるかもしれませんが、ざっくり言うと「他者と関わりのない自分をわずかしか見いだせない場所」のことを示します。
「或る浮遊」の解釈が難しいのですが、おそらく「現実界」を論じたジャック・ラカンの思想から引っ張ってくれば、「浮遊するシニフィアン」のことを意味しているのではないかと思われます。
「浮遊するシニフィアン」は、ラカンのいう「超越論的シニフィアン」と対をなす思想。
前者は自分なんてものは存在しないということ、後者は自我そのものを意味する用語です。
まとめると、
パトカーのサイレン=現実界=わずかでも自我を見いだせている状態、自分のミッションや仕事がはっきりしている状態
ベンツの爆音=或る浮遊=浮遊するシニフィアン=何者でもない自分、アーティストになりきれていない自分
を示しているのではないでしょうか。
これにより肩書をもつ者ともたない者の対立や、自分と他者との食い合いやバランスの崩れやすさも暗示しているという解釈もできます。
そして転調してサビを繰り返し曲が終わりますが、最後は低いキーで口ずさんでいます。
またおなじ朝が戻ってきたのでしょうか。さいごまでヒリヒリと痛い曲です。
最後に
以上、真実は林檎さんにしかわからないのでしょうが、「罪と罰」の歌詞解釈を全力でしてみました。
ただただ退廃的な曲、とだけで終わらせてはもったいないくらいの深い思想が盛り込まれていることがわかりました。
病床で自分と見つめ合ったからこそ書けた作品なのかもしれません。
林檎さん同様、わたしたちは自分は確固たるものだと思い込み自分勝手に行動する「罪」を犯しやすいです。
「罰」を受ける前にいま一度自分を振り返る時間をとりましょう。
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