夕暮れ迫る琵琶湖の北部

波のまにまに 漂えば
赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
行方定めぬ 波枕
今日は今津か 長浜か

出典: 琵琶湖周航の歌/作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋

3番の歌詞に出てくる今津(現在の高島市)は琵琶湖北部の西岸、長浜は東岸にあります。

のちに琵琶湖で遭難した第四高等学校のボート部員が出発したところ

長浜は戦国時代末期に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が居城を構えた城下町として有名です。

雄松を出発したボートは琵琶湖の北部にまで漕ぎ進んできました。

「赤い泊火」とあるように岸辺の家々に明かりが灯り、そろそろ次の宿泊地を決めようという情景。

景勝地「竹生島」

瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
眠れ乙女子 やすらけく

出典: 琵琶湖周航の歌/作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋

4番の歌詞に書かれている竹生島は琵琶湖北岸近くに浮かぶ島。

島には西国三十三所観音霊場三十番札所の宝厳寺と竹生島神社があります。

竹生島神社は都久夫須麻(つくぶすま)神社とも呼ばれ、七福神の弁才天(弁天様)が祀られています。

この神社に伝わる伝説は次のようなもの。

『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/都久夫須麻神社

弁才天は頭に金や銀、珊瑚で出来た冠を被っています。

竹生島に上陸した小口は神社に参拝して、古い伝説に思いを馳せたのでしょう。

城跡と西国巡礼札所

古城とは佐和山城か

加藤登紀子「琵琶湖周航の歌」の歌詞を解説!周航しているのは誰?事故を追悼しているって本当?真実に迫るの画像

矢の根は深く 埋(うず)もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり 佇(たたず)めば
比良(ひら)も伊吹も 夢のごと

出典: 琵琶湖周航の歌/作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋

5番の歌詞には地名がなく古城とだけあります。

これを手掛かりに彦根城とする意見が一般的。

ところが彦根城だと前半の歌詞はつじつまが合いません

夏草が茂った堀跡に矢が埋まっているとあるので、この城で戦いがあったことになります。

彦根城は関ヶ原の戦いが終わった後に、徳川家康の家臣である井伊直政が築きました。

今から400年以上も前に造られた天守は国宝に指定され、名城として有名です。

しかし、彦根城では戦いがありませんでした

また堀には水があり、歌詞の内容と矛盾します。

そのため、他の城も含めてどこなのか色々な意見があるようです。

その中で彦根城のすぐ近くにあって戦いが行われた条件の合う城がありました。

石田三成の佐和山城です。

関ヶ原の戦いで西軍を指揮した石田三成は、徳川家康に敗れて伊吹山に逃れました。

やがて石田三成は敵方に見つかり、最期は京都で処刑されています。

佐和山城には石田家の一族が籠城していましたが、徳川方に攻められてあえなく落城。

山に築かれた城なので堀には元々水がありません。

井伊直政は佐和山城を取り壊して建物の一部を彦根城に再利用しています。

佐和山城跡は湖畔にある彦根城からは東に1km足らずの位置。

彦根に泊まった小口が歩いても十分に行ける距離でしょう。

城跡からは東に伊吹山が、琵琶湖を挟んで西に比良の山々が臨めます。

城跡に1人佇んで戦国時代に思いを馳せる小口の姿が浮かぶよう。

近江八幡から大津へ

西国十番 長命寺
汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去りて
黄金(こがね)の波に いざ漕(こ)がん
語れ我が友 熱き心

出典: 琵琶湖周航の歌/作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋

6番の長命寺は近江八幡市にあり、聖徳太子が開いたという言い伝えがあります。

歌詞には「西国十番」となっていますが、実際は西国三十三所観音霊場第三十一番札所です。

小口らボート部員は大津を出発して以来、昼間は湖上にいて、俗世間から離れた日々を過ごしてきました。

寺に参拝した小口は周航前の日々で感じていたモヤモヤした気持ちが晴れているのに気付いたという意味。

琵琶湖周航は長命寺を出て出発地の終着点、大津に向かいます。

波間に晴天の陽が輝く琵琶湖にボートを漕ぎ出し、仲間の部員たちと熱く語り合っていたのでしょう。

「琵琶湖周航の歌」と「琵琶湖哀歌」

もう1つの「琵琶湖周航の歌」