『JUJU』は家族や親戚の影響で、様々な音楽に触れながら育っていきました。
その中に「ジャズ」があり、幼少期のDJ経験等を通じて歌手を目指そうと決意していきます。
その後、18歳の頃にニューヨークに渡米する機会があり、現地の音楽性にも触れてきました。
帰国後は日本人離れした音楽センスが呼び水となり、多くのレコード会社から声をかけられることになります。
1990年はクラブミュージック全盛ということもあり、当然彼女の音楽性も注目されました。
ちなみに、1980年代に『矢沢永吉』が全編英語歌詞のアルバムを世界各国に発売しました。
これを機に日本人アーティストやグループがこぞって世界に向けた活動をするようになります。
「日本から世界へ」が主流だった時代に、「逆輸入女性ソロ」の先駆け的存在が『JUJU』といえるでしょう。
音楽性による葛藤
『JUJU』は幼少の家庭環境のおかげで「音楽は自由」だという潜在意識があったと思います。
プロにスカウトされるまでは、「今の自分が欲している音楽」に対して忠実に生きてきました。
しかし各レコード会社に声をかけられるようになってから、音楽に対する価値観が揺らいでいきます。
2004年にメジャーデビューを果たすも鳴かず飛ばずで全く芽が出なかったと語っています。
特に印象的なのが以下の言葉といえるでしょう。
「出し続けて消費されるのが嫌だったんですね。アマチュアの世界ではうまい人が偉いけど、プロの世界では売れている人が偉い。じゃあ売れる音楽ってなんだろうって、ずっと模索し続けた2年間だった」と振り返っている
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/JUJU
今まで聴いてきた音楽のほとんどが「売れるための音楽だった」と思い知り戸惑いを隠せなかったのでしょう。
「好きな曲を聴くのと同じように歌っても認められない」という現実を突きつけられた絶望は計り知れません。
最初は幼少期から馴染みのある歌い方で表現しましたがセールスにつながりませんでした。
当時は「日本語を正しく発音する曲が売れる」というアドバイスで自身の歌い方を試行錯誤していきます。
そして2006年に3枚目のシングル「奇跡を望むなら...」でヒットを記録しました。
人気ライブの「ジュジュ苑」
2008年4月から、12ヶ月連続のマンスリー・カバー・ライブ「ジュジュ苑」をスタート。同年10月10日、ニューヨークで凱旋ライブ「JUJU苑 in NY」を開催。また日本記念日協会により、「JUJU(ジュジュ)=10(ジュウ)月10(ジュウ)日」にちなんで10月10日が「JUJUの日」として正式認定された。以後、この日にライブを行うのが毎年の恒例となる。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/JUJU
このライブでは『JUJU』と観客がじゃんけんをするのが恒例となっています。
じゃんけんで最後まで勝ち残った人には『JUJU』とデュエットできるという特典付き!
緊張しながらもあの『JUJU』とステージに立てるという興奮に包まれたファンも多いでしょう。
話は逸れますが、「ジュジュ苑」という名前は、某焼肉チェーンをもじっているのかもしれません。
実は「JUJU」の生まれた年と同じ1976年に、その焼肉チェーンが六本木に創業されました。
「JUJU」の10周年ライブでアン・ルイスの「六本木心中」をカバーしたのも何かの縁のような気がします。
「JUJU」の原点
「JUJU」は尊敬するアーティストとして「松任谷由実」を挙げています。
好きな日本人アーティストは松任谷由実で、本人曰く「マニアって言っていいくらい大好き」。「日本の音楽といえばユーミン」とも語っている。その後、プライベートでも交流を持つようになった。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/JUJU
「ジュジュ苑」でもユーミンのコーナーを取り入れているくらい大好きだと語っています。
「JUJU」が売れなかったデビュー当時に「ビブラートをきかせるな!」と言われたことがありました。
実は「松任谷由実」も過去に同じことを言われて挫折した時期があったんだそうです。
自分の歌い方を否定されるのは、自分の人間性まで否定されている気持ちになったのではないでしょうか?
そんなエピソードからも「自分を引っ張ってくれた大先輩」として敬意を払っているのでしょう。
ジャズアーティストとしての活動
デビューから全く売れなかった時期から「ジャズアーティストへの憧れ」をずっと封印してきました。
2011年にようやく彼女に転機が訪れます。