この世界を変えたいと願い彷徨う3人の男たち
この楽曲を歌うのは、北海道発のロックバンド「ズーカラデル」です。
虚飾にまみれ、殺伐とした現代社会を生きる僕たち。
そんな僕たちの代弁者となって歌ってくれている、そんな印象を強く持ちました。
彼らはこの世界を変えたいと願いながら彷徨っています。
僕らは、まったく変わらない世の中を諦観してしまってはいないでしょうか?
しかし、それでも諦めないのが音楽家であり、僕らを鼓舞するのが音楽家でしょう。
ズーカラデルの歌うまっすぐなメッセージは、ささくれた僕らの心を温めてくれます。
3人の男たちは世界を変えるために彷徨い続けます。
彼らのそんな日々の果てにあるものとは何なのでしょうか?
この曲の歌詞から、ズーカラデルの想いを紐解いていきます。
いつも思うのは夢のような国のこと
理想郷を追い求める
ねぇママ 僕らの夢の国
寝ても覚めても 消えないのはなんで
そのせいでいつも くたびれて
流れた涙が 川を作る
出典: 漂流劇団/作詞:吉田崇展 作曲:吉田崇展
誰もがみんなに優しく、お互いに助け合いながら生きる世界を、我々は理想郷と呼んでいます。
ですが理想を追い求めれば追い求めるほどに、現実との埋まらないギャップに疲弊していくのです。
やがて僕たちは疲れ、諦めてしまいました。
理想を叶えるのは大変なことです。
「理想」が「夢」に
かつて「現実」の対義語は「理想」でした。
しかし「理想」は絶対に叶わないものだと諦められて、「夢」に置き換わります。
「現実」の対義語が「理想」だと答えるのは古めかしいことです。
今の若者で、理想を熱く語っている人を見かけることはなくなりました。
70年安保闘争の頃は、まさに若者が理想を語っていた時代で、それはもう50年も前の、昔々のことです。
「現実」の対義語が「夢」となってからは、もう叶わないものであって、文字通り”夢見る”ものとなりました。
誰もが現実を受け入れて、目は濁りきって盲目となり、満員電車に乗って、毎日300円の牛丼を胃に流し込みます。
そして「虚構」に…
さらに時代が進むとインターネットが発達して、ヴァーチャルなSF上の世界が現実のものとなります。
人々はインターネットの仮想世界に理想郷をつくろうとしましたが、すべて失敗しました。
さらに、それに並行してアニメや漫画などの「虚構」が社会に拡がり、唯一信じられるものに成長していきます。
かくして今の「現実」の対義語は「虚構」となりました。
いずれは現実も虚構も境目がなくなって、何が現実のことで、何が虚構なのか判断できなくなるでしょう。
それでは、かつて人々が話し合っていた「理想」とは、「夢」とは何だったのでしょう?
ポロポロと人々の流してきた涙はやがて川のようになり、どこかもっと暗い場所へと流れていくようです。
優しい世界を求めて彷徨う
この時代に音楽家が担う役割とは
あいつとわたしの 終わらぬ旅
右も左も 地獄の入り口
どうしてこんなところへ来た
惰性の吐息で お茶を濁してる
出典: 漂流劇団/作詞:吉田崇展 作曲:吉田崇展
それではこんな世界で、音楽家が担った仕事とはどんなものなのでしょうか。
音楽家は何も考えられなくなった僕らの上に立って、僕らを先導していく存在なのでしょうか。
僕たちがすっかり忘れてしまったものを、彼らが歌という形で丁寧に教えてくれるのでしょうか。
音楽家だけは鋭敏に時代の流れを感じ取っていて、盲目な僕たちに正解の道を示してくれるのでしょうか。
彼らが醸し出す「人間味」や「親近感」の理由
きっと違うでしょう。
彼らだって同じように苦しんできたのです。
そして、歌詞にあるように何をどうしていいか分からずにただただ嘆息しながら時間だけを持て余しているのです。
音楽家がこの世界で、この時代で担った仕事や役割などはありません。
ズーカラデルの歌から感じる「人間味」や「親近感」は、こうした主張を彼らがしているからではないでしょうか。
あなたは音楽家たちに、音楽で表現をしている人たちに、考えることを任せっきりにしてはいませんでしたか?
彼らだって等身大の、僕たちと同じ人間です。
歌に勇気づけられたり、共感するのは良いでしょう。
しかし啓蒙されてはいけないのです。
そしてズーカラデルの3人は諦めていません。