圧倒的な歌唱力はどこから得たのだろう?
小柳ルミ子のあの歌唱力はいったいどこで身につけたのでしょうか?
久しぶりに聞いてみると、「わたしの城下町」はデビュー曲ながら堂々の貫禄で歌われているのがわかります。
とても並みの新人ではないことが、聞いた瞬間にわかるほどのうまさです!
とりあえず過去映像がありますので視聴してみましょう。
私の城下町を聴いてみよう
いかがですか?
ロングトーンで歌うサビの部分などは、圧倒的な安定感があり、とてもデビューとは思えませんね。
小柳ルミ子を支えてくれたお母さんの存在
これだけ歌えるのは、小さいころからの訓練があったからなのです。
小柳ルミ子のお母さんは、今でこそ珍しくありませんが、娘の芸能界デビューを狙う教育ママだったのです。
こんな風に書くと一時期話題になった安達祐実のお母さんのイメージが出てきますが、そんなことはありません。
純粋に娘のことを思うお母さんで、仲の良い親子でした。
お母さんの臨終に間に合わなかったとき、電話で「瀬戸の花嫁」を歌ってあげるほど仲が良いエピソードがあるくらいです。
そのお母さんが、小柳ルミ子が小さいころから色々な習い事に通わせていたわけです。
内容は、まず和洋どちらも踊れるようにバレエや日舞、さらにジャズダンスと幅広く習わせています。
歌手にさせたかったお母さんは、歌に関しては特に力を入れて習わせたそうです。
デビューに向けた青春時代
中学まではお母さんの勧める習い事をこなしていたわけですが、その後の進学は音楽専門学校を選びました。
当時は音楽学校というと、宝塚か松竹といわれた時代ですが、小柳ルミ子は宝塚音楽学校に入りさらに技術を磨き続けました。
松竹を選ばなかったのは、多分そのころ松竹がやや落ち込んでいたためだったと思われます。
こうやって書くと気軽に入れそうに見えますが、トンでもございません!
現在では定員に対して約25倍の倍率です!
やや低迷していたその当時でも軽く10倍以上の倍率ですので、その当時から才能があふれていたようです。
さらに卒業は首席だというから、お母さんもさぞ満足だったことと思います。
「私の城下町」が出来上がるまで
宝塚音楽学校を卒業すると通常は宝塚歌劇団に入団するのですが、小柳ルミ子は歌劇団に入団せず、ナベプロに入りました。
まあ、最初から歌手を目標としていたので、当然といえば当然なんですが、よほど強い意志がなければできないことですね~。
そこらへんもきりっとしたイメージのもとになっているのでしょう。
平尾昌晃との出会い
小柳ルミ子のデビューと「私の城下町」の完成については平尾昌晃を抜いては語れません!
そのころの平尾昌晃は長期の入院生活から復帰したばかりです。
作曲家として活動していますが、これといったヒットがまだ出ていませんでした。
このころは今と違って、作曲家が歌手をプロデュースするのが普通の時代で、平尾昌晃もこれだ!という歌手を探していました。
その時に出会ったのが小柳ルミ子なのです。