ケセラセラのおまじない
“Que Sera, Sera=なるようになるさ”
ケセラセラのおまじない あの人を信じたいけれど
繋ぎあわせてほつれた 指先がかじかんできた
ねえ ケセラセララ
出典: 曇天/作詞:吉澤嘉代子 作曲:吉澤嘉代子
大切な恋を失くしてしまわぬように、いつも彼女はおまじないの言葉を唱えていました。
それは“ケセラセラ(Que Sera, Sera))”というフランス語。
英語でいえば“let it be”、つまり“なるようになるさ”という意味の言葉です。
運命の赤い糸で結ばれていると思っていた小指から熱が冷めていくような感覚を覚えます。
すがりつくように彼女はおまじないを唱え続けるのです。
いつしかそのおまじないは歌となり、人格を持ち始めます。
「Que Sera, Sera+La La(ケセラセララ)~♪」
その言葉はイマジナリーフレンド、つまり空想上の友達として主人公の心の支えになっているのです。
“Que Sera, Sera”と出会った場所
骨張った膝に 寝ころんで観ていた
あなたの好きな 純粋で退屈な映画も全部わかってあげられる気がしてた
この世でいちばん 優しい場所だったのにな
出典: 曇天/作詞:吉澤嘉代子 作曲:吉澤嘉代子
『Que Sera, Sera』はしばしば楽曲名に冠されるほど有名な慣用句です。
2番のAメロで彼女がこの言葉を知ることになった経緯がさりげなく描かれます。
恋人はかなりの映画通なのでしょう。
ことあるごとに彼女に自分の大好きなフランス映画や古典映画を紹介してきたのです。
おそらくその中の1つはヒッチコック監督の「知りすぎていた男」だったのでしょう。
ドリス・デイの歌う50年代のヒット曲『Que Sera, Sera』が同作の主題歌なのです。
彼の膝枕にうずくまり感じた愛情と共に彼女の中でそのフレーズが印象に残っていたのでしょう。
その後主人公はおまじないの呪文、そしてイマジナリーフレンドとしてこの言葉を唱えるようになったのです。
秀逸な詩的表現
私を青春の1ページに綴じないで
ケセラセラのおまじない あの人を信じたいけれど
初めて渡した私を 青春に綴じこめないで
ねえ ケセラセララ
出典: 曇天/作詞:吉澤嘉代子 作曲:吉澤嘉代子
3回訪れる『曇天』のサビの中でもっとも秀逸なのがこの2行目です。
通常“閉じこめる”と表記するところをあえて“綴じ”としているのには理由があります。
この“綴じる”の裏側には“あなたの青春の1ページの中に”という意味が込められているのです。
主人公にとって初めて人を慈しむことを知った大切な、大切な初恋。
一方で彼にとっては様々なパートナーとの出会いの記憶の1つでしかないという事実に気づいてしまった...。
吉澤さんは2人の気持ちのすれ違いをポエティックな歌詞で表現しているのです。
もう1つ注目したいのが耳触りのよい押韻、もしくは言葉遊びについて。
2行目の歌詞で「“わたし”た“わたし”」が掛詞になっており、耳に入った時の心地よさに気付きます。
このような日本語の響きを利用した繊細な言葉遊びも楽曲に彩りを与えているのです。
駅のゴミ箱に捨てるのは?
ポケットに入れたままの 言葉をひろげてみたけれど
すぐに偽物と気づいて 駅のゴミ箱に棄てた
出典: 曇天/作詞:吉澤嘉代子 作曲:吉澤嘉代子
そしてこのCメロでの詩的表現に私たちは再度感嘆させられます。
主人公が大切に心の中にしまい込んでいた恋人からの優しい言葉の数々。
「愛してるよ」「ずっと一緒にいようね」
しかしこれまでの2人の関係性を客観視することができた彼女はようやく気付きます。
これらのセリフが心からのものではない空虚な言葉の羅列であるという事実にです。
彼女は家路へと向かう駅のホームでその思い出を捨て去る決心をします。
さらにこのゴミ箱が主人公の心象表現の比喩である理由について触れておきましょう。
1995年のオウム真理教によるテロ以降、駅構内のゴミ箱はほぼ全て撤去されています。
つまり現代の日本で駅のゴミ箱に捨てるという行為は存在しないのです。
また、吉澤さんは“捨”ではなく“棄”を用いています。
漢字の用法から考察して分かるのは“執着心を拭い去る”という深い意味を込めていることです。