尾崎豊ヒストリー

生誕から学生時代

尾崎豊1965年、2人兄弟の次男として東京都世田谷区に生まれました。小学生の時に埼玉県へ引っ越しをしましたが、学校に馴染めず、不登校の日々が続きました。

兄の影響もあり、音楽に興味を持つようになった尾崎は井上陽水の曲を好んでいたといわれます。

中学校では生徒会の副会長なども務めましたが、喫煙したことで停学処分を受けたことがあります。

高校は青山学院高等部に入学したものの、オートバイ事故飲酒乱闘騒ぎなどを起こし無期停学処分を受けています。

1980年代はちょうど横浜銀蠅が一世を風靡し、金八先生では加藤優が校内暴力シーンを演じたこと、「積み木崩し」などがトピックになった時代です。

尾崎の人格形成・作曲活動はこういった時代背景に大きく影響を受けていきました。

デビュー

尾崎は1983年、「15の夜」でデビューしました。まだ高校在学中の18歳でした。

CBSソニーのCBS SONY Sound Development Audition 1982に合格し、デビューを果たします。

売上

セカンドアルバム「回帰線」は早くも1位を獲得するという注目の高さで、「10代の教祖」とか、「若者のカリスマ」などと呼ばれました。

尾崎豊の曲の中で最も売れた曲は1994年発売、OH MY LITTLE GIRLで107万8,000万枚です。

その他、同じ1991年発売のI LOVE YOUが48万4,000枚など売上をほこります。

驚きなのが、デビューから生前のシングルアルバム総売り上げ枚数が253万6,000枚なのに対し、没後(2002年まで)が744万8,000枚を記録していることです。

尾崎豊のアルバム一覧/30周年記念ベスト『ALL TIME BEST』が気になる!の画像

心の闇

一躍スターダムにのし上がった尾崎豊でしたが、20歳になると迷いと苦悩の日々を迎えることになります。1986年、突然、無期限活動休止宣言をして渡米しました。しかし、アメリカでも得るものはなくその年の末に帰国しています。

その後、ライブツアーの中止、覚せい剤での逮捕、バンドメンバーとの関係悪化など尾崎豊にとっては負の連鎖が続く日々が続きました。

「太陽の破片」がヒットし、古館一郎、芝俊夫司会の「夜のヒットスタジオ」に出演しましたが、テレビへの出演は残念ながらこれが最初で最後になってしまいました。

夭逝

1992年4月25日早朝、尾崎豊の自宅近くの路上で、傷だらけでしかも全裸の尾崎豊が発見されました。病院から一旦自宅に帰ったものの、容体が急に悪化し、そのまま帰らぬ人となりました。

死因は覚せい剤中毒による肺水種と診断されました。

尾崎豊エピソード

浜田省吾

尾崎豊は浜田省吾から多大な影響を受けました。ディレクターは浜田省吾を担当したソニーの須藤晃というのも何かの縁かもしれません。

所属事務所もある時期、浜田省吾の所属するロード&スカイに籍を置いたことがあります。

例えば浜田省吾の代表曲J. Boyは矛盾する社会との狭間で苦悩する人間を歌った歌です。

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エピソード

1991年に雑誌の対談がきっかけで女優斉藤由貴との不倫が発覚しました。

アルバム一覧