拓郎か陽水か
吉田拓郎?「全部だきしめて」のおじさん?Kinki Kidsのギターの先生?いやいやいやいや。
吉田拓郎。ぼくの母が女学生時代のアイドルです(敢えて「ミュージシャン」とは申しません)。
1970年代初頭の女子たちに、圧倒的な人気を誇った吉田拓郎。
理由?単純ですよ。顔です顔。いつの世も女の子なんてそんなもんです。
70年代初頭の音楽シーンは、この二人が人気を二分していました。
ぼくはというと母の影響で、拓郎ではなく陽水を聴かされて育ちました。
「傘がない」も「氷の世界」も「心もよう」も、ぼくにとっては子守唄も同然です。
実際に歌を聴いてみると
この2人。歌わせてみると、印象がガラリと一変します。
圧倒的に声が甘いのは陽水で、拓郎はガラガラ声でがなるんです。
歌の上手さに定評があるのも陽水で、拓郎は歌うというより語りの延長。
「人は見た目によらぬもの」とはよく言ったものです。
外見を裏切る声のギャップが、いいほうに作用したのでしょうか。
最近のライブ映像ですね。昔はもっとがなっていました。
歳を取って拓郎さんも丸くなったかな?
共通点は日常を歌ったこと
見た目も声も正反対で、水と油のような拓郎と陽水には、実は重要な共通点があります。
彼らが登場する以前のフォークシンガーは、政治や社会に抗議するプロテストソングを歌っていました。
ぼくが住んでいる京都は50年ほど前、そうした社会派フォークシンガーの一大メッカでした。
ところが広島から上京した吉田拓郎と、福岡から上京した井上陽水は、自分たちの日常を歌詞に乗せて歌いました。
拓郎と陽水が歌う新しいフォークソングは、古参のフォークファンから猛烈にヤジられながらも、若者たちの間に共感と支持を広げていきます。
吉田拓郎の功績
吉田拓郎がいなければ、今日のJ-POPはなかったと言っても過言ではありません。
というのも、今のミュージシャンがやっていることは、どれも拓郎が最初に始めたことだからです。
「拓郎様」とお呼び!
大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田拓郎
1975年に静岡県のつま恋で開いた野外コンサートは、日本で最初の「夏フェス」だと言われています。
またミュージシャンでありながら、井上陽水らと共同でフォーライフ・レコードを設立し、同社の社長も兼務しました。
深夜ラジオのパーソナリティに、アイドルや歌手のプロデュースまで手がけ、異能ぶりをいかんなく発揮した吉田拓郎。
ただ顔がいいだけの軟派野郎ではありませんでした。