自分の存在する意味って?
生きている意味や存在理由について、誰もが一度は考えたことがあるでしょう。
藍坊主の『ハローグッバイ』は、そういった答えのない問いに正面からぶつかった曲です。
自分はなぜ生きるのか?
それを考え始めると、なんだか鬱々とした気持ちになってしまいますね。
だから多くの人はだんだんと、存在理由を自分に問わなくなるのかもしれません。
考えたところで答えは出せない。
答えが出せないから憂鬱になる。
しかし、ただぼんやりと生きるのが虚しいのも確かです。
いま一度、存在理由を自分に問い、「生きるとは何か」考えてみませんか?
『ハローグッバイ』は自分という人間を見つめ直す良いきっかけになると思います。
生きるエネルギーに満ちたMV
MVは夜空に浮かんだ半月の映像から始まります。
くるくる回るカメラワークと強いフラッシュが、この曲の疾走感と力強さを演出していますね。
しかし2番に入ると、一時的にカメラが固定されます。
この静と動の演出も、曲に込められたメッセージを表現するためのものでしょう。
がむしゃらに前だけを向いて走ってきた過去と、立ち止まり生きている意味について考えている現在。
前に進むだけが人生ではありません。
時には過去を振り返り、立ち止まって考えることも必要です。
そうして確かな答えを得られたなら、また迷わずに走り出せばいい。
最後にステージの周りが爆発を繰り返すのは、過去よりもエネルギーに満ちた自分を表現しているのかも。
それにしても、炎に包まれたギターを振り回して粉々に粉砕するシーンは衝撃的ですね。
情景から伝わってくる「僕」の心情
『ハローグッバイ』の歌詞は情景描写と心理描写の繋がりが秀逸。
歌われている景色を想像すると、この曲の「僕」の心情が自然と伝わってきます。
純文学的な比喩表現にも注目しつつ、歌詞に込められたメッセージを読み解いていきましょう。
切ない季節に考えること
ヨーグルトのカップに赤とんぼが止まってる、
カラカラ乾いた、夕日の匂い。
木枯らしは木枯らしで、アリはアリで、ネコはネコ、
けどぼくは、いまだに、ぼくになれない。
出典: ハローグッバイ/作詞:佐々木健太 作曲:藤森真一
「赤とんぼ」や「木枯らし」といった言葉から、この曲の季節が秋であると分かります。
秋は理由もなく切ない気持ちになる季節です。
夏の終わりと冬の訪れを同時に感じながら、肌寒い風に身をすくませる。
そんなとき、不意に寂しさを感じる瞬間はありませんか?
「ヨーグルトのカップに~」の歌詞は、そういったなんとなく寂しくなる瞬間を歌っているのだと思います。
同様に「カラカラ乾いた~」の歌詞からも、秋という季節の侘しさを感じられますね。
心が寒くなって、ふと自分という人間について考えてみた。
そうすると、自分が何者にもなれていないということに気づいたようです。
それは秋という季節の切なさが、そんな気持ちにさせているだけかもしれません。
アリやネコと自分を比べているところに、心の不安定さが表れていますね。
劣等感に息苦しくなる
劣等感の固まりがずっと、息をしてもパンを食べても、
飲み込めないところに詰まってんだ、
バケツ3杯分じゃ足りないくらい
出典: ハローグッバイ/作詞:佐々木健太 作曲:藤森真一
ここの歌詞では、小骨が喉につっかえたときのような息苦しさが歌われています。
自分という人間について考えているうちに、だんだんと劣等感ばかりが大きくなっていった様子。
「飲み込めないところ」というのは、きっと心を表しているのでしょう。
心の中にあるものは、「息をしてもパンを食べても」飲み込めないし、吐き出せない。
劣等感を消化できないまま、息苦しさだけがずっと続きます。
いったいどうすればいいのか?
途方に暮れている姿が「バケツ3杯分じゃ~」の歌詞に表れていますね。
「僕」の心が見た景色
2番の歌詞でも情景描写と心理描写が密接に関わり合っています。
心情は目に見えた景色によって左右されるもの。
また同じ景色でも、そのときの心情によって見え方が違ったりします。
この曲で歌われている情景は、すべて「僕」が見た景色です。
それはつまり、「僕」の心が見た景色とも言い換えることができるでしょう。