愛など無い知らない 謎解けない吐きたい 雪溶けない吐けない
プラスチックの天の川が 汚染ゆえに遊泳禁止
アダムとイブが風俗ビルの空き屋に住むって現世の虚無
終電後の下りのホーム ハックルベリーがゲロの横で眠ってる
出典: アノミー/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
この曲の大きなテーマになっているのは「愛」だと思います。
それなのに「愛など無い知らない」と最初に言い切っているのは、目の前の世界があまりにも虚しいから、かもしれません。
天の川が示唆するのはカップルの象徴、織姫と彦星。そしてアダムとイブは旧約聖書の最初の人類であり、最初の夫婦ですよね。
ロマンチックなカップルの間は汚れた作りごとばかりだったので別れてしまい、罪を背負ってまで結ばれた聖なる夫婦はやたら俗っぽい生活。
これが現世での愛の形なのか、と諦めにも似た虚しさを覚えています。
ハックルベリーは小説『トム・ソーヤーの冒険』で知られるトム・ソーヤーの親友で、母親はおらず、アルコール依存症で横暴な父親の元から逃げ出した少年です。
アルコール依存症の父親を嫌った少年は、父親と同じように深酒に溺れるようになっていました。
「私」の虚しさと、酒を口にするようになった少年の気持ちは、もしかしたらリンクするところがあるかもしれません。
そして「私」はそんな少年を眺めて、いくら嫌悪していても、誰もかれも結局は同じことを繰り返すのだ、と諦めを強くしているのでしょう。
アダムにとって知恵の樹の実とは イブの連れ子か パチンコ玉か
某都市の歓楽街で エデンはどこに? いたるところに
午前中に笑ってた家族の写真が 夕方のトップニュース
テレビを消して現実に戻る 横たわる死体に目を落とす
出典: アノミー/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
知恵の樹の実は、旧約聖書の『創世記』でアダムとイブが齧った実のことですよね。
決して食べてはいけない、手を出してはいけないと言われた禁断の果実が、どちらだったとしても不穏です。
繁華街にあるという「エデン」、モチーフになった戯曲で「エデン」は風俗店でした。
旧約聖書のエデンでもアダムとイブは服を着ていないことですし、きっとそういう所を指しているのでしょう。
ニュースになった家族は、午前中は笑っていたのに夕方には笑えなくなっています。
事件や事故に巻き込まれたのか、家庭内でニュースになる何かが起こってしまったのか。家庭内トラブルから起こる事件も多く聞かれますよね。
「横たわる死体に目を落とす」、MVではパソコンのモニターを眺めているあたりのシーンが流れていました。
”コンピューター”という言葉は、パソコン登場以前は”計算をする人”を指していました。電源の入っていないパソコンは「横たわる死体」とも言えるかもしれません。
”死体を見ること”に意味を持たせるならば、たとえば夢占いでは”マンネリ化していた事態が動き出す”という予兆を示したりもします。
世界にあふれる、俗っぽい愛が神を殺す
禁断の果実齧ったって 羞恥心は芽生えなかった
神を殺したのは私 神に殺されるのも私
愛って単純な物なんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ アノミー アノミー
そんなら そのあばずれな愛で 68億の罪も抱いてよ アノミー アノミー
出典: アノミー/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
マンネリ化の打破がきました。この”禁断の果実を齧ること”は何を指しているのか。
モチーフの戯曲では、階下の風俗店の行為を覗き見てしまう、にあたると思います。
「アノミー」では明確に示されていませんが、カップルや夫婦の愛に失望している「私」なので、おそらくそれに類することでしょう。
アダムとイブが羞恥心を持つきっかけになったことでも、「私」にはそう感じられなかった。
何故なら、「私」が生きている世界は、聖書に記されたような倫理観なんてとっくに無くなっていたからです。
愛がアノミー、愛に対する欲望に歯止めがきかなくなって、あばずれのように暴走しているこの世界。
「愛って単純な物なんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ」とあります。
これは特定のラブソングや愛の歌に対してというより、巷にあふれ、消費されるだけの”世俗的な愛”全般へ向けられています。
その俗っぽい愛が織姫と彦星を別れさせ、アダムとイブを風俗ビルに押し込めた。神を殺したのはこの世界だ。
なおかつ、そんな世界で生きている「私」も、神の怒りを買う立場にあると強く感じています。
68億、全人類が抱えたこの罪を抱いてくれというのは、ハックルベリーのような矛盾を抱えた自分に対しても、自暴自棄になっている様子がうかがえます。
黙ってりゃ腐る身体を サーベルみたいにぶら下げ歩む命
あっちじゃ化物に見えたとか 向こうじゃ聖人に見えたとか
物を盗んではいけません あなたが盗まれないために
人を殺してはいけません あなたが殺されないために
出典: アノミー/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
「サーベル」とは、湾曲した刀身が特徴のヨーロッパの刀ですよね。
このサーベルは多くの国で、軍隊の階級を示すシンボルとして用いられていました。
「黙ってりゃ腐る身体」とは、すなわち死体。特殊な場合を除いて、生きているなら腐らないはずです。
ところが一度死んで生き返り、”腐っていてもおかしくない身体を伴う”ことこそが、シンボルとされている人物がいます。イエス・キリストです。
イエスはご存じの通りキリスト教でいわれる神の子。旧約聖書においても、その登場を預言していたとされています。
ですが、旧約聖書と同じ内容の経典を持つ、キリスト教のルーツでもあるユダヤ教では、一般的に救世主とも預言者とも、もちろん神とも認められていません。
また、後の時代、中世ヨーロッパのキリスト教的思想を色濃く反映したものの中に、『ヘレフォード図』に代表される世界地図があります。
13世紀ごろに描かれたその地図では、キリスト教圏以外に化物が配置されていますが、キリスト教の一部の宗派が十字軍を派遣した地域にも該当します。
十字軍の実態が必ずしも大義のある戦いではなかったことを考えると、時代が下るにつれてイエスの教えも形骸化していることがうかがえます。
”化物”たちから見れば、イエスを示す旗のもとに集った軍勢もまた、”化物”だったかもしれません。
神すら、愛を投げ売りしている
禁断の果実齧ったって 追放なんてされなかった
神を許したのは私 神に許されたのも私
愛って特別なものなんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ アノミー アノミー
そんなら その尻軽な愛で 68億の罪も許してよ アノミー アノミー
出典: アノミー/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
前の歌詞を受けて、ここでの禁断の果実は窃盗や殺人といった犯罪、してはいけないこと、にあたると思います。
カトリック教会の教えを借りると、
殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え(マルコによる福音書10章19節)
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/大罪
に反することが、大罪(永遠の死=地獄から逃れられない行い)とされています。
このあたりは、ハックルベリーが語り手である小説『ハックルベリー・フィンの冒険』において、旅の途中で出会う数々の悪党たちも想起させます。
また、大罪は悔い改め、自分の罪を告白し、神に赦されることによって取り除かれるとされ、同じような赦しの儀式は、ほかのキリスト教の派閥でも見られます。
この一連の儀式は裁判における被告人発言が、判決を下す裁判官の心証にも影響するであろうイメージともダブりますね。
大罪の中には重大な犯罪もありますが、しかたなくついた小さな嘘やうっかりした借りパク、両親への反抗など、見方によっては誰もが犯しうるものも含まれます。
罪を犯しても、「私」はこの世界で生きている。
ハックルベリーは物語の中で、敬虔であろうとしながらも祈る行為に意味を見いだせず、なかなか神を信じることができない様子が描かれています。
そして「私」がいる世界では、神や神の愛の実在を証明できず、神の教えは心の在りようだったと認識されています。
神の愛で許されているであろう「私」は、結局誰でも構わず愛を与える、嘘つきな神の罪も許してやる。
生まれながらに、全人類に背負わせたという罪だって、その特別な愛で節操なく許せばいいじゃないか。
神という神聖な存在すら根底から覆されて、作り物だった神の愛を投げ売りされていたにも等しいと感じているのでしょう。
結局救いを求めたのは…
神様なんて信じない 教科書なんて信じない
歴史なんて燃えないゴミだ 道徳なんて便所の紙だ
全部嘘だ 全部嘘だ って言ってたら全部無くなった
愛する理由が無くなった
殺さない理由が無くなった
愛って複雑な物なんです なんて歌ってる馬鹿は私だ アノミー アノミー
そんなら この神経過敏な愛で 救えた命はあったか? アノミー アノミー
救ってよ
出典: アノミー/作詞:秋田ひろむ 作曲:秋田ひろむ
神様も教科書も歴史も道徳も、この世界のルールだと言われてきたことに、確かなものなど何もなかった。
いや、昔はそれでよかったのでしょう。近代化を経て、神様や奇跡が解明され、歴史が説明され、道徳がただの戒めだと証明されてしまう前までは。
宗教だったり、言い伝えであったり、今まで信じてきた昔からのモラルや秩序を守る仕組みを、本当は「嘘だ」と言い続けていたら、世界はすべての拠り所を失ってしまった。
じゃあ、どうして愛するのか、どうして殺してはいけないのか。一体何を信じればいいのか。
「尻軽な」愛に縋ってきた今までの「歴史」は灰にもならない「燃えないゴミ」で、「あばずれな」愛の尻拭いに「道徳」があっただけ。
だから「愛など無い知らない」と言い切っていたはずなのに、「愛って複雑な物なんです」と歌わずにはいられない「私」。愛の存在を捨てられなかった馬鹿な「私」。
私の愛は「神経過敏」、拠り所にもならない不安定な愛ですが、こんな愛でも誰かを救えたか?と問いかけます。
「馬鹿」と自嘲しているのは、「私」も結局のところ「愛」を繰り返してしまったに過ぎなかったこと。
そして、もしかしたら「私」の命は救えた、とも感じているのかもしれません。
自分を愛することは勿論ですが、他者との関わりも「愛」を介しますよね。
最後に「救ってよ」と呼びかけるのは、愛は自分に与えるだけのものではないからではないでしょうか。
あばずれでも、尻軽でも、イブでも神でもいい、「私」以外の誰か。
しかし、この世界の愛は消費されてばら撒かれるだけのアノミー。もう「私」を救ってくれる人はいないのかもしれません。
それでも「救ってよ」と、希望を込めて、誰に宛てたわけでもなくこの世界に向かって呟くのでしょう。