そもそも勝ち負けではないし 判定の仕方も分からないし
ところで話は戻るけど 6でもないとか言ってたけども
ならばあなたは何なのよ って残すはもうあと一個でしょ
言わずもがなと思うけども もちろんそれは7ですよ
ご存知の通りこの僕の 頭にはラッキーがついてるの
出典: 七ノ歌/作詞:野田洋次郎 作曲:野田洋次郎
自分が好きな人に愛されていること。
自分が両親の子どもであること。
そして自分自身を肯定できていることが歌われています。
自分を肯定できていることを誰かと比べたりしたくないけれど、どこかで自分が一番幸せなんじゃないか?なんて考えているのです。
後半部分には、数字の話が出てきます。
6ではないという部分は、ロクデモナイという言葉にかかっています。
自分はロクでもない人間ではなく、ラッキーな男なんだという自己肯定の歌なのでしょうね。
日本語部分は、自己肯定の歌ですが、英語部分は死ぬまで君と一緒にいたいという切実な気持ちが歌われています。
音楽はゴスペルとロックです。
これはいったいどういうことでしょうか?
僕という主語
英語のIという主語を、日本語では僕、私、俺など様々に表現することができます。
また映画を観ても、主人公の気持ちに共感したり、まるで自分のことを表現していると思ったりすることがあります。
ここに、「僕」という主語の不思議があります。
物語や歌詞など、歌われていることは、厳密にはアーティスト自身である「彼」や「彼女」が表現していることです。
でもそういう他者が表現した物語や音楽を自分のことのように感じることができます。
音楽を通じて、野田洋次郎というアーティストの表現が共有されています。
"私って誰だ?"という歌詞に対して、どう答えればいいでしょうか?
作詞者は野田です。
でも"僕"という主語は代名詞でもあるため、自分のことのように響く。
人と人が厳密に自分自身と他者を完全に分けて認知する存在であったなら、言葉は届かず、音楽も響きません。
でも音楽や言葉を通じて、その人が感じたことを自分のことのように感じることができる。
感性は人によって違いますが、他者や世界を理解するためにあらゆる表現が教えてくれることがあります。
タイトルの意味
日本語で自分の数字は7と歌われていることから、この歌は"ナナの歌"であってもいいはずです。
でも、この歌は"なのか"と呼ぶそうです。
英語部分では現実に追いつめられていて、死ぬまで君と一緒にいたいという切実さがゴスペル風に歌われています。
しかし日本語部分ではいつ死んでも君がいるから幸せだし、子どもも自分を受け継いで欲しいという気持ちが歌われています。
幸福と不幸がせめぎあい、英語と日本語と主語の問題に悩みながら、この歌について考えています。
君に愛された幸福と、現実に苦しむ自分のせめぎあいが歌になっている。
苦しみの中で歌を歌ったアフリカンたちの苦しみと、歌にこめられた思いが伝わってきます。
そういう背景に、人生に対する歌というものの祝福が感じられます。
自分は自分で幸運だと感じられたら、もっと世界は違ってみえるのでしょうか?
読み方は"なのか"ですが、筆者は意味としては数字の"ななのうた"なのではないかと推測します。
音楽による喜びの共有がテーマなのか?と感じていますが、本当のところはわかりません。
「七ノ歌」のコード譜
「七の歌」バンドスコア
有料ですがバンドスコアもみつけたので、ぜひ演奏してください。
最後に
自分を肯定したいという気持ちは人が生きる本質的な部分です。
そして自分が愛する人に愛される喜びはとても素晴らしいものです。
音楽は思いを共有する人類の宝物。
少しだけ野田洋次郎のように、ささやかに自分を祝福できたらいいですね。
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