吉田拓郎について
吉田拓郎と言えばフォークシンガーとしてあまりにも有名ですが、彼は作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサーという多面性を持ち合わせています。
芸名をいくつか持っていることもよく知られていて、平仮名表記の「よしだたくろう」のほかに、楽曲提供者としては「入江剣」の名も。
他アーティストへの楽曲提供に加え、CMソングやアニメ、ドラマ、映画の主題歌も数多く手掛けるマルチな活躍ぶり。
一方で、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのジャニーズ、中でも真に歌唱力のある男性デュオ・KinKi Kidsともバラエティ番組で共演を果たしています。
『LOVELOVE あいしてる』
フォークソング全盛期を知らない世代にも吉田拓郎の名を知らしめたのが、伝説の音楽バラエティ番組『LOVELOVE あいしてる』でしょう。
同番組は、フジテレビ系列で1996年10月から2001年3月までの5年間弱、毎週土曜日に放送されていました。この番組、『堂本兄弟』の前身に当たります。
それまではテレビへの露出を拒否していた吉田がレギュラーを務めるという事でも話題になりました。
フォークの神様としての彼を知らない若者世代からは「おちゃめな吉田拓郎像」が受けたものの、団塊の、彼をフォークの神様とあがめる世代からは非難もあったようです。
2017年に16年ぶりに復活し、当時のレギュラー陣と、新進気鋭のアーティストなども参加して、あのにぎやかさを再現していましたよ!ぜひレギュラー化してほしいものです。
『結婚しようよ』は「よしだたくろう期」の作品
1970年『イメージの詩』でデビューし、『結婚しようよ』、『旅の宿』のヒットによって彼はフォークシンガーとしてだけでなく、売れっ子の作曲家として名前をとどろかせます。
この時期、彼の作品はことごとくヒットするものの、全共闘時代の「フォークソングを戦いの歌、反骨精神を唱える歌」としてあがめていた世代からは、アジリティーの対象となりました。
商業主義だ、軟弱だと非難され、糾弾されます。
その一方で音楽評論家の中には、フォークソングを闘争から切り離し、若者に即受ける楽曲のレベルまで押し上げた旗頭だと評価する向きもあるのです。
J-POP(ジェイポップ)の開祖と紹介する評論まであるほど。
『結婚しようよ』について
『結婚しようよ』はよしだたくろう名義で1972年に発表したシングル。B面の曲は『ある雨の日の情景』です。
彼自身、まるで『結婚しようよ』の歌になぞらえるように、長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で当時フォークシンガーだった四角佳子と結婚式を挙げています。
・・・・・・というか、この歌、最初の結婚相手だった四角佳子にささげたプロポーズソングだったんじゃないんですかね??!そうですよね?!
『結婚しようよ』がもたらした現象
この曲は爆発的にヒットし、それまで反体制の象徴であったフォークソングを、“若者のポップ・ミュージック”としてメジャーに押し上げたのは確かです。
このヒットのおかげで、拓郎は “フォークのプリンス”などと評されるようになります。
また彼自身、激しいバッシングを受ける度に「それならフォークでなくていい」というある種突き放した物の見方が、その後の若者世代からの人気を欲しいままにしたのです。
それだけでなく、ニューフォーク、あるいはJ-POPという新しい音楽ジャンルを創出し、ひいてはその始祖としてあがめられるようになるのです。
かの大作詞家・阿久悠が自著『愛すべき名歌たち-私的歌謡曲史-』で『結婚しようよ』のワンフレーズに時代の移り変わりを痛感したと述べています。
そのワンフレーズとは「ぼくの髪が肩まで伸びて」。
この楽曲が作られた1960年代の若い男性の標準的な髪型はもちろん短髪。スポーツ、ことに野球などやっていたら、それこそ丸坊主が当たり前の時代。それがビートルズの来日により長髪がはやり始めます。
さらに怒濤の全共闘時代には、長髪は体制に対する激しい反骨精神の象徴としてきたにも関わらず、吉田拓郎のフォークソングがそれを瓦解(がかい)させたとも言われているのです。
偉業ですよ、これって!エポックメーキング的な!
トリビア・そんな吉田拓郎の実生活における『結婚しようよ』
時代の流れを変えたとまで言わしめた吉田拓郎の『結婚しようよ』。自身のプロポーズソングともなったこの楽曲。
平成の今になってもこの曲でプロポーズをする人もいるのでは?・・・・・・っていないか。
吉田拓郎は実はバツ2で森下愛子は3人目の妻です。
夫人は四角佳子~浅田美代子~森下愛子の3名。いずれも1950年代生まれの女性。うーん、タイプなんでしょうね。