なんぼ汚れたアタシでも 子供の頃は可愛いかってね
休みの日には母さんと 可愛いベベ着てお買い物
出典: イノチミジカシコイセヨオトメ/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
順序が入れ替わりましたがここからが歌いだしのフレーズです。
序盤で彼女がとある地方出身者であることが示唆されます。
主人公の女性の口調は、方言と標準語がない交ぜになっているのです。
今は夜の仕事に就いて、あまり人には言えないような職業に従事している彼女。
けれどそんな彼女でも、昔は何の汚れも知らない純粋無垢な少女でした。
どんな大人でも、男性でも、女性でも、どんな仕事をしている人たちにも。
必ず穢れを知らない、純粋で素直な子どもの頃があったはずなのです。
みな子どもの頃は、同じ場所に立っていたはずなのに。
いつのまにこんなに、歩んでいく人生の道のりが変わっていってしまったのでしょうか。
彼女にとっての思い出は、幼少時代に母親とお出かけをした記憶で止まっているのでしょう。
現在上京し夜の職業に就いている状況設定から、彼女はすでに成人していることがうかがえます。
大人になり懐かしさを感じる情景というのは、思春期というのが一般的な表現ではないでしょうか?
ここから推察できるのは彼女にとっての思春期はあまりよくない時代だったのでは?ということです。
さらに彼女の思い出には「父親」の存在が見えません。
きっと片親だったのでしょう。1人娘として大切に育てられた彼女。
しかし大好きな母親はシングルマザー。
母親とのお出かけは彼女にとって美しい過去の情景として残っているのです。
タイトルに込めた意味とは?
黒澤明の「生きる」との対比
毎日は凄い早さで 気付いた時は消えてしまうけど
長生きする気も無いから イノチミジカシコイセヨオトメ
出典: イノチミジカシコイセヨオトメ/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
「イノチミジカシコイセヨオトメ」は大正時代の流行歌、「ゴンドラの唄」の有名な一節から取られています。
多くの方にとっては黒澤映画の名作、「生きる」の劇中歌として記憶されているであろうフレーズです。
映画のラスト、主人公を演じる志村喬が人生最後の夜にブランコに乗り「ゴンドラの唄」を口ずさみました。
黒澤明は人生を生き抜いた主人公の辞世の句のように、このフレーズを用いたのです。
対して尾崎世界観は生きる実感のない主人公の虚無感を表現するために、「ゴンドラの唄」を引用しています。
大人になればなるほど、毎日が恐ろしい速さで過ぎ去っていく。
そう感じる方もきっと多いのではないかと思います。
半年前や1年前が、まるで昨日のことのよう。
気付けば自分の誕生日を迎え、「えっ、わたしもう〇〇歳なの?」なんて思う方も多いことでしょう。
そのわりにこの1年、この1ヵ月。自分が何をしていたかなんて全然思い出せない。
まあでもそれでいいや。別にやりたいこともないし、なりたいこともないのだから。
そんなふうに刹那的な感情を抱えながら生きている人も、この世にはきっと多いのではないかと思います。
バブルの頃なんて経験していない多くの人々にとって、日本の経済が良くないことが当たり前。
景気は悪化する一方だし、少子化は進むし、このままでは日本に明るい未来はない。
生まれてから今日まで、ずっとそう聞かされてきた人も多いことでしょう。
当然ですが、そんなふうに生きていては未来に希望なんか持てません。
そのような形で、文学性の強い尾崎作品らしい対比構造が仕掛けられているのです。
手にした代償は感情の欠落
明日には変われるやろか
明日には笑えるやろか
札束三枚数えては 独りでつぶやく スキキライスキ
出典: イノチミジカシコイセヨオトメ/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
もっともエモーショナルに歌われるサビのフレーズ。
切実な歌声とは対照的に主人公には「生きる」気力が希薄です。
「運命だったのかな?」と諦めざるをえない過去を必死で生き抜いてきた結果。
その代償はすり減らされ喜怒哀楽を欠乏してしまうことでした。
3万円という料金が高いのか安いのかはもはや問題ではありません。
花びらの恋占いを無邪気に楽しむことができる頃もあったのでしょう。
もはや惰性でしか生きることのできない彼女はその3万円を花びらに見立てて恋占いを行います。
答えは分かっているはずなのに...。
明日=来世
明日には変われるやろか
明日には笑えるやろか
花びら三枚数えたら いつかは言えるか スキキライスキ
明日には
明日には
花びら三枚数えたら あんたに言えるか スキキライスキ
出典: イノチミジカシコイセヨオトメ/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
OLになり雑務を行うことが幸せの象徴だと高らかに歌い上げた2度目のサビ。
あれからどれだけの月日をこの職場で過ごしたのでしょう。
彼女には恋焦がれる対象がいるようです。
3枚の1万円札を力なく手にする彼女。
恋占いの結果はもちろん「好き」です。
愛しい人を思い浮かべたら胸がいっぱいになります。
自然と笑みが浮かんでしますのが乙女心というものではないでしょうか?
しかし彼女は日々の虚無に飲み込まれ微笑みを失ってしまいました。
彼女にとって愛おしい人と幸せに暮らす日々は遥か未来、輪廻の先の出来事なのです。
最後に尾崎世界観は「好き」と絶叫します。
その悲痛な叫びは私たちの胸にトゲのように突き刺さるのです。
「イノチミジカシコイセヨオトメ」と「欠伸」の未来像の対比
「欠伸」との対比
さよなら ばいばい じゃあね またね
結局ここには何もないけれど
ばいばい じゃあね またね
良かったらまた遊びにきてね
ばいばいじゃあねまたね
結局ここには何もないけれど
ばいばいじゃあねまたね
良かったら股ここに遊びに来てね
出典: 欠伸/作詞:尾崎世界観 作曲:尾崎世界観
「イノチミジカシコイセヨオトメ」と「欠伸」は比較的近い時期に作られた楽曲です。
同じ職業の女性をテーマにし、感情の欠落を抱える共通点も見られます。
しかし楽曲が終わった後味の決定的な差はどこから来るのでしょう?
「欠伸」では客と店員という疑似恋愛を比較的ポジティブに受け取ることも可能です。
しかし「イノチミジカシコイセヨオトメ」の主人公は負の連鎖に絡めとられています。
疑似恋愛に終始するが一筋の救いを見出せる「欠伸」。
叶うことがないと信じ込んでいながらも恋に焦がれる「イノチミジカシコイセヨオトメ」。
あなたならどちらの人生に救済を感じることができますか?