デビューは1967年
「この広い野原いっぱい」がヒットした時代とは?
サンフランシスコ生まれの日系2世ジャズ・トランペッターの森山久を父として、元ジャズシンガーの浅田陽子を母として誕生。兄がいた(故人)。 かまやつひろしは従兄(母の甥)、その長男かまやつ太郎は従甥にあたる。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/森山良子
恵まれた家庭環境があったとしてもプロになるには才能が必要ですから、親子3代というのは凄いことですね。
彼女が「この広い野原いっぱい」でデビューしたのは1967年で、当時の日本は好景気に湧いていました。
音楽の世界にも活気があり、歌謡曲には数々のヒット曲が生まれグループサウンズも大人気。
澄んだ歌声で世の中に爽やかな風を吹き込んだ19歳の彼女がデビューしたのは、そんな時代だったのです。
ラジオから流れていたFEN
団塊の世代は元気で明るい?
森山家のラジオから流れていたのはFENという在日米軍向けの英語放送でした。
今ではスマホで好きな音楽をいつでも手軽に聴くことができるようになりましたが、もちろん当時は違います。
FEN(Far East Network)は一部の戦後世代にとって洋楽に触れる貴重な情報源となっていたのです。
日本が戦後の混乱を経て高度成長期へと向かっていた時代にジャズ・ミュージシャンの家庭で育った森山良子。
子供の頃からたくさんのレコードやFENが身近にあったのは幸運だったといえるでしょう。
1948年生まれで”団塊の世代”のひとりでもある彼女には家庭環境だけでなく時代も味方していたのでしょう。
戦後のベビーブームに生まれた人のなかには芸能人も多く、1947年生まれのビートたけしもそのひとりです。
彼らには同世代の仲間やライバルも多く、とにかく元気でパワーのある人が多いなという印象があります。
森山良子の明るいキャラクターにも生まれた時代が影響していそうな気がします。
原点はギターの弾き語り
優しくロマンチックな世界
この広い野原いっぱい 咲く花を
ひとつ残らず あなたにあげる
赤いリボンの 花束にして
出典: この広い野原いっぱい/作詞:小薗江圭子 作曲:森山良子
アコースティックギターのメロディーとリズムが気持ちの良いイントロがとても爽やかです。
ギターの弾き語りというスタイルは森山良子の原点で、彼女の澄んだ歌声とアコギの相性は抜群だなと思います。
「この広い野原いっぱい」は歌謡曲が全盛期を迎えようとしていた時代にあって一服の清涼剤のようでした。
後にヒットした「さとうきび畑」や「涙そうそう」と比べてもさらに澄み切った声は新鮮に響いたのです。
歌詞の中には愛や恋という言葉は出てきませんが、この曲にはすべてを包み込むような優しさがありました。
デビュー当時の彼女はまだ少女の面影を残しているようなところがあり、花やリボンも自然に馴染みます。
この曲が描くのは優しくロマンチックな世界です。
好きな人に美しいものをプレゼントしてあげたいという少女のような心は、溢れるような愛に満たされています。
満たされない心や強く求める気持ちは彼女の中にないようです。
ジャズシンガー志望からフォークシンガーへ
親子でつながる不思議な縁
この広い夜空いっぱい 咲く星を
ひとつ残らず あなたにあげる
虹に輝く ガラスにつめて
出典: この広い野原いっぱい/作詞:小薗江圭子 作曲:森山良子
彼女があの声で歌うからこそ、このロマンチックな歌詞は違和感なく聴く人の心に染み込んでいきます。
野原も夜空もその広い世界すべては澄んだ声と少女のような心で埋め尽くされるのです。
ガラスはただ美しく透き通っているだけではなく、プリズムのように光を虹へと変えて歌の世界を彩ります。
その中に星を詰め込むという作詞者の発想とセンスが素敵です。
この曲を作曲した森山良子は作詞者とは面識がなく、ある画廊で見つけた詩にメロディーをつけたそうです。
たまたま目に入ったこの詩に共鳴したセンスも彼女の才能だと思います。
同じ高校の先輩に影響を受けてフォークソングに惹かれた彼女にはここでも幸運が訪れたのです。
先輩とは黒澤明の息子の黒澤久雄で、彼に渡されたのはジョーン・バエズのレコードでした。
若い世代の皆さんにはどれも馴染みのない名前でしょうね。
ジョーン・バエズはアメリカの著名なシンガーソングライターで、フォークソングのシンボルのような人です。
黒澤久雄はブロード・サイド・フォーというグループで「若者たち」という曲をヒットさせました。
この曲は後に彼女の息子の森山直太朗がカバーすることになるという縁もあるのです。
両親の影響でジャズシンガーを目指していた森山良子。
彼女がフォークソングの世界に入るきっかけを作ったのは世界的な映画監督の息子だったというわけです。