ここでもメッセージと「韻」の関係が語られています。
もちろん「韻」についてきちんと解説している箇所もあるのです。
「韻」を踏む前の心構えとしてまず心に残るメッセージを考えろと歌います。
まずは中身なのだと何度も注意を促して、その上で職人芸のように「韻」を踏めというのです。
「韻」というものはもはや歌詞を書く人くらいしか関心を向けません。
文学者は「韻」を前近代的なものとして、むしろ排斥してしまうのです。
言葉の楽しさを伝える「韻」は音楽の歌詞でしか重宝されません。
さらに生活の場でも「韻」を踏もうと意識するのはもはやラッパーだけでしょう。
こうした営為をバカだなと思う人はいつか痛い目に遭うよと餓鬼レンジャーは歌います。
言葉というものの可能性として「韻」は大事なものだという事実に足をすくわれる。
餓鬼レンジャーはそんなことを歌います。
実際に歌詞以外にも「韻」の近似性がある言葉を組み合わせた現代思想家がいました。
フランス現代思想を代表する著名な哲学者のジャック・デリダです。
彼の著作を読むと言葉の響きが近いものを羅列・併記して新しい思考を呼び起こそうとしています。
ジャック・デリダの登場はヒップホップの誕生よりもずっと以前にさかのぼるものです。
NY・ブロンクスの悪ガキたちがデリダの著作を読んでいたとは思えません。
しかしデリダの思想自体はアメリカ合衆国でも大きな衝撃をもって受け入れられました。
さらにいとうせいこうなど日本のヒップホップの始祖はデリダからダイレクトな影響を受けています。
餓鬼レンジャーは日本のヒップホップの王道の中でこうした影響を引き継いでいるのです。
ヒップホップのライムはデリダ的・現代思想的な物事への切り込み方と親和性があります。
「The skilled」で見られる美学が哲学にまで昇華されているのはこうした背景があるからでしょう。
デリダの思想もヒップホップの歌詞も所詮言葉遊びと罵る人がいます。
しかし実際には両者とも真摯な想いを抱えて、すべての人類に問題の在り処を訴えているのです。
伝えたいことの中心にあるものは冗談で済ませるものではないという表明がカッコいいでしょう。
ラッパーは哲学がないとやっていけないのです。
フェイクとの闘い
人類はもっともっと踏んでいいのさ 踏むと踏まんとじゃ雲泥の差
それとこれとを別々にする 熱烈韻踏む 絶滅危惧種
技術とバイブス リズムとライム
気づくとアイツはどうしたんだ? 動詞ばっか
それぞれ それはそれでいいんだけど 今日も オレはオレで 韻固えぞ
出典: The Skilled feat. LITTLE & FORK/作詞:YOSHI, LITTLE, FORK 作曲:DJオショウ
「韻」によって本質が違うもの同士が結ばれること。
この効果によって世界に新しい光を当てようとするのが「韻」の美学です。
この言葉はあの言葉と似ている。
しかしこの対象とあの対象は似ても似つかない。
しかし「韻」を踏めば仲間同士になれるよというのが大切なことです。
上述のジャック・デリダの叙述の仕方もこうしたものでしょう。
さらにヒップホップのライムというものも自然にこの方向に向かっています。
しかしあまりにもユニークすぎるこうした言葉の使い方は少数派になってしまいました。
とはいえヒップホップは長らくこの世の春を楽しんでいたロック音楽を過去のものにします。
いまやアイドル・ポップの中でもラップが盛んに導入されているのです。
餓鬼レンジャーは「韻」を踏むのはマイノリティだと嘆いています。
それは生活の言葉として、あるいは主流の文学や詩の世界でのお話です。
ヒップホップは音楽界で覇権を握ろうとしています。
ではこうした機運の中でなぜ餓鬼レンジャーは「韻」の滅亡を危惧するのでしょうか。
おそらくあまりにもフェイクなラップというものがあふれてはいないかという危機意識からでしょう。
本当に「韻」を踏めるのは「The skilled」に限られたものだと歌っているのです。
リアルかフェイクかという判定は人それぞれとも断っています。
あくまでも餓鬼レンジャーの視線にとってまがい物が多すぎないかと嘆いているのです。
名詞で「韻」を踏むのではなく動詞にこだわりすぎだと餓鬼レンジャーは嘆きます。
こうした指摘はひどく具体的な提言でしょう。
自分はあくまでも「韻」を踏み続けて、この道を極めたいと願います。
ヒップホップの未来は明るい
「韻」の踏み方はそれぞれでいい
それぞれの「俺の理論」押韻glowing で声を披露 これぞ基本
踏んだり蹴ったり 骨折り損 だがこれのみ信じてON & ON & ON
隙がない踏み上がり 口から韻で打ち鳴らし
畳掛ける 更に化ける 馬鹿に慣れる 花火上げる 当たり前
出典: The Skilled feat. LITTLE & FORK/作詞:YOSHI, LITTLE, FORK 作曲:DJオショウ
間にリフレインが含まれます。
繰り返しになりますので掲載は割愛しました。
このラインではラッパーによって「韻」を踏むための技法に関する理論はそれぞれだと歌います。
大切なことはきちんとそれぞれの理論で培ったライムを声にすることだと歌うのです。
ときに失敗することもあるでしょう。
リスナーがポカンとしてしまうような「韻」の踏み方もあります。
それでも自分が大切にしている理論を貫きなよと歌うのです。
違う理論から放たれる「韻」が様々なところから聴こえてくる社会が素敵なのだと訴えます。
やっているうちに理論が実って本物になるでしょう。
いつか君のライムが世界を席巻することもあるかもしれない。
いまはそれくらい「韻」というものにチャンスがあるのです。
空前のヒップホップ・ブームは現象というものを超えて日常生活に馴染むようになりました。
多くの子どもたちが幼少の頃からヒップホップ文化と親しい関係でいます。
驚くような天才がこうした下地から登場するのでしょう。
このときこそ花火のような鮮烈さを目撃できるのです。
成長するごとに若返る
まさに時代に逆行 ベンジャミンバトン 限界など 無いライム進化論
貰い方より渡し方 養った感覚は確かだ
マイクの前ではバイブスキープして ライムスキルを磨くとさ
それが視覚聴覚味覚の差 より明確な違いになるのさ
出典: The Skilled feat. LITTLE & FORK/作詞:YOSHI, LITTLE, FORK 作曲:DJオショウ
「韻」を踏むことは音楽の歌詞以外の文化ではもう200年くらい時代遅れでしょう。
ここで餓鬼レンジャーは映画「ベンジャミンバトン」を例に出しました。
老人として生まれた赤ん坊が成長するに従って若返ってゆくという設定の映画です。
ヒップホップの誕生はまさにこの映画の設定のようなものだといいます。
「韻」を踏みがちなおじいさんとして世に生まれてしまったのだというのです。
しかしヒップホップは成長するに従ってフレッシュな存在として社会で受け入れられます。
老いる宿命から解放された存在がヒップホップだと歌うのです。
またラッパーは「韻」を踏むことを即興で表現することも求められます。
こうした際には尖った感覚こそが大事になるというコツを伝授しているのです。
しかし小手先でどうにかなるものではないとも表明しています。
その人が持っている感覚が頼りになるのですから出来不出来というものが差になって現れるのです。
差というネガティブな計り方だけではなく、個性の違いを楽しむというポジティブな観測もできます。
あまりにも深い「韻」についての美学と哲学でしょう。
最後に 人間讃歌「The skilled」
ギャルソンの服は高かった
1 for the rhyme 2 for the rhyme 3. 4. 5 for the rhyme
no rhyme no life (all right!)
ケツはみ出た韻がローライズ show timeだぜ 兄弟分
超NICEオモレー 韻踏みゃ座布団 時に重てえ キングTHE100トン
1つも持ってねえ コムデギャルソン 混むと言えば 小菅ジャンクション
出典: The Skilled feat. LITTLE & FORK/作詞:YOSHI, LITTLE, FORK 作曲:DJオショウ
一にライム、二にライム、ライムがなければ人生もないと歌います。
ヒップホップはバックトラックも大事な生命でしょう。
しかし序列としてはまずメッセージだと書いたラインが気になります。
芸術家というものは何ごとか世に問いたい新しい価値を伴って登場する存在です。
新しいものの見方を提示してくれるアーティストだけが本物でしょう。
ラッパーはそうした新しいものをライムの中で表現する存在なのです。
とはいえ小難しいことだけを発するのではありません。
むしろどこか駄洒落めいた洒脱さを感じさせるライムが日本語ラップの伝統でしょう。
ここでも素晴らしい「韻」を大喜利のようにひねり出すことが歌われます。
座布団を十枚重ねれば素敵なプレゼントを獲ることができるのです。
コムデギャルソンはバブルを彩ったアパレル・ブランド。
ギャルソンの服などラッパーはまず着ません。
小菅ジャンクションを検索しようとすると「小菅ジャンクション 混む」と予測候補が出ます。
ここでのメッセージとは何でしょうか。
ギャルソンの服が高くて手が届かない格差社会の姿。
一向に解決策が見つからない東京一極集中の問題。
こうした社会問題にも鋭く切り込むのは日本語ラッパーとしての矜持でしょう。
ただしこのラインは「韻」も踏んでいますが連想ゲーム的な発想がベースになっています。