「死に物狂いで生き急いでんだ」の箇所は、映画の主人公達の運命をイメージしているとはいえ、川谷絵音自身の姿と重なります。才能があふれているのに、限られた時間の中でしか楽曲を作ることができないことへのジレンマというか・・・・・・この後のフレーズも、彼の焦りや恐れなどが断片的にちりばめられていきます。
もういっそ枯れちまえばいい
そう思って叫んだ嘘も
あなたには届かないから美しいんだ
出典: https://twitter.com/geskiwa010me/status/917014274958008320
歌詞の意味や世界観を考える。
『ロマンスがありあまる』のPVでは、切ない恋心を連想させるシーンがありますし、「ロマンス」という言葉の持つイメージも、「恋愛」が切っても切り離せないでしょう。「恋愛」というフィルターを通してこの歌詞を眺めれば、それはもう「切なく苦しい恋心」を歌っているようにしか見えないのは確かです。
映画の世界観を余すこと無く伝えている!
しかしバックグラウンドを知れば知るほど、『ロマンスがありあまる』は忠実に映画の世界観を表しているのです。
疾走するようなリズム、歌詞で繰り返される『死に物狂いで生き急いでんだ』などは、短命が運命付けられている特殊能力の持ち主達の悲しさを歌っているのであろうと思われます。
さらにフレーズの『いつも贅沢に怯えていたんだ』もまた、特殊能力を持て余す子供たちの感情を素直に表しているとも思えるのです。
『ロマンスがありあまる』私論
で、つまるところ『ロマンスがありあまる』において、ベッキーとの一連の出来事は何の関係も無い、と言えるのですが、どうにもこうにもあの事件があまりにもセンセーショナルだっただけに、そのようにみられるのが運命(さだめ)みたいになってしまった感じがあります。
ベッキーとのことは話さない川谷絵音
ベッキーとの一件以降、公の場では彼女との間に何があったか詳しく語ろうとしません。それは、恋愛関係にあった彼女に対する礼儀だとも思えますし、アーティストとしていかにあるべきかを考えた結果だったとも思えます。
スキャンダルだろうがゴシップであろうが、それが有名になるチャンスであれば、それを利用してスターダムにのし上がるゲスの極み乙女。はある意味すごいと思います。
川谷絵音は「会いに行けるアイドル」や「身近な芸能人」ではないということなのでしょう。秘密の部分が多いほど、人は引き付けられるのですから。
私小説じゃあるまいし・・・・・・
それに、私小説でもあるまいし、いちいち自分の個人的な体験や感情を詩と音に落とし込まれるというのもどうなんでしょう?少しうっとうしい、かなり重いと私なんかは思うのですが。
ましてや他人様(ひとさま)の不倫なんて、あまりおいしいネタでもありません。それがこの楽曲の元ネタだと言われただけで、お腹いっぱいになってしまいます。「もう、たくさん」といった感じでしょうか。
仮にベッキーとのことがこの楽曲の生まれる発端だったとしても、あれだけのインパクトがなければこの楽曲は生まれなかったんだろうな、と思うのです。その事件をきっかけにテレビ界でのベッキーは没し、この曲が生まれたのだとしたら、それもある意味すごいドラマですよね。
まとめ
つまるところ、作品について作り手はくだくだとコンセプトを語ることはまずない、ということです。作り手を離れた時点で作品は受け手のもの。
そこに道ならぬ恋の苦しい思いを見いだしたのなら、それはあなた自身の体験がそうさせているだけなのです。
―――そしてあらためて『ロマンスがありあまる』を聞いてみると、思うようにならない現実に途方に暮れる自分が見えて来たりして、切ない気持ちになります。ゴシップにまみれてしまうには惜しい一曲です。
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