俳優であり歌手
実はGSでデビュー
寺尾聰と言えば、現在ではベテランとして渋い演技を見せている俳優という印象が強いと思います。
ですが実は、彼にはミュージシャンという別の顔もあるのです。
寺尾聰は1947年5月18日生まれ。数々の映画やドラマに出演した名優、宇野重吉を父に持つサラブレッドでした。
昭和40年代、ビートルズやローリング・ストーンズなどのバンドの影響を受けて、日本の歌謡界にも若いバンドが数多く誕生しました。
これがいわゆるグループサウンズです。寺尾聰はグループサウンズのバンド、「ザ・サベージ」のベーシストとしてデビューします。
ザ・サベージはデビュー曲「いつまでもいつまでも」、それに続く「この手のひらに愛を」などヒットを飛ばしますが寺尾聰はすぐにグループを脱退してしまうのです。
俳優の道へ
「ルビーの指輪」
名曲誕生の裏側
「ルビーの指輪」は1981年2月5日に、寺尾聰6枚目のシングルとして発売されました。
現在までで寺尾聰にとって最大のヒット曲となっている曲ですが、この曲が発表されるまでには様々なドラマがあったようです。
寺尾は所属していた石原プロモーションの社長・石原裕次郎や専務・小林正彦に聴いてもらうが、小林は「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と否定する。しかし石原には「いいんじゃないの」と好感触をもらい、レコード化が決定した。
出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/ルビーの指輪
「お経みたいな曲」とはやや行き過ぎた表現ですが、渋いアダルト路線の曲だったのは確かです。
当時の歌謡界は前年に松田聖子がデビューし、本格的にアイドル全盛の時代へと移り変わろうとしていました。
そんな中で演歌とも違う路線の「ルビーの指輪」のヒットを予見できた人は少なかったでしょう。
実際に、レコードが発売されてからすぐはあまり売れ行きは良くなかったようです。
予想を上回る大ヒットへ
「ルビーの指輪」は発売から1ヶ月がたつ頃から徐々にチャートを登って行き、3月30日付けのオリコンチャートでついに1位を獲得します。
当時はテレビの歌番組が全盛の時代でした。その代表格が「ザ・ベストテン」です。
「ルビーの指輪」は「ザ・ベストテン」でも1位まで登りつめました。
ただ1位になっただけでなく、12週連続1位という記録を作ったのです。
「ザ・ベストテン」のスタジオには「ルビーの指輪12週連続1位」記念の赤いソファーが置かれることになりました。
1989年に「ザ・ベストテン」が終了するまで、この記録は破られることはなかったのです。
「ルビーの指輪」のヒットにより、寺尾聰の他の曲にも注目が集まるようになりました。
「ルビーの指輪」の前に発売されていたシングル「SHADOW CITY」、「出航 SASURAI」もセールスを伸ばし、3曲同時にチャートインするという現象が起こりました。
「ルビーの指輪」は1981年に最も売れた曲となり、同年年末の日本レコード大賞を受賞するのです。
寺尾聰にとって、この年はミュージシャンとしてのピークとなりました。
収録アルバム
「ルビーの指輪」は1981年リリースのアルバム『Reflections』に収録されています。
このアルバムは「ルビーの指輪」や他の曲のヒットを受け、160万枚以上のセールスを記録しました。
これは当時、アルバムセールスとしては最高記録となる数字だったのです。
アダルトポップスの傑作として、今も語り継がれる名盤です。