時代の寵児、加山雄三

「海 その愛/加山雄三」は捨て曲だったって本当?!壮大な歌詞を紹介♪オススメの楽譜で弾き語りに挑戦の画像

若大将、PS3を持ち歩く

加山雄三1937年生まれの俳優でありシンガーソングライターです。

加山雄三を語る上で絶対に外せないキーワードは「若大将」でしょう。東宝が1961年から展開した映画「若大将」シリーズの主人公・田沼雄一の愛称が「若大将」です。

加山が演じる若大将が主人公の映画は全部で17本制作されましたが、いずれも加山人気で大ヒット。東宝のドル箱シリーズでした。

シリーズ以外の出演作も多いのですが、加山の俳優としての活躍は「若大将」で語られることがほとんどです。80歳を過ぎる現在でも加山が「若大将」と呼ばれるのはこのためです。

「若大将」シリーズでは劇中歌も歌っていました。中でも「君といつまでも」加山雄三の代名詞とも言える曲です。加山が歌う曲はほとんどが自身の作曲です。

加山は日本のシンガーソングライターの先駆け的存在で、楽器を弾きながら歌うスタイルはのちに隆盛するフォークシンガーたちに数年先立っていました。

もちろん「君といつまでも」だけでなく、加山は多くの曲を歌っているのですが、紅白歌合戦17回の出場(2017年現在)のうち、4回は「君といつまでも」での出場でした(メドレー除く)。

次に多かったのが、本稿のもう少し後で紹介する「海 その愛」での出場(3回)でした。加山は「海の男」として知られ、湘南サウンド草創期の代表的アーティストでもあります。

1960年のデビュー以来、俳優としても歌手としても活躍を重ねてきた加山ですが、近年はゲーマーとしても知られるようになってきました。

加山はコンピュータゲームが大好きで、中でも「鬼武者」というアクションゲームは57分という短時間でクリアした記録を持っています。

また、ホラーアクションゲーム「バイオハザード」シリーズのファンでもあり、シリーズ5作目の頃はプレイステーション3本体を持ち歩いて、どこでもプレイしていたといいます。

シリーズ7作目はプレイステーションVRを購入の上プレイして夢中になりすぎて、「所属事務所から新曲をつくってくださいと怒られている」とインタビューに答えたことがありました。

昔もいまも、若者の文化を大いに取り入れて楽しむ柔軟さが、現代の若者にも人気を博す理由のひとつとなっています。

西伊豆には加山雄三の活躍の記録や作品を随時展示している「加山雄三ミュージアム」があります。加山は若い頃から船が好きで「光進丸」というプレジャーボートを所有し、その母港が西伊豆なのです。

今年2018年4月に3代目光進丸が火災に遭ったというニュースはみなさんの記憶にも新しいことでしょう。加山は「光進丸」という曲をつくり歌っていたほど、とても大切にしていました。

それだけに光進丸全焼は加山に大きな影響を与えたに違いありません。所属事務所が加山への精神的影響を考え、火災の報から間もなく、近日予定のコンサートの延期を決定したほどです。

この件でかなり気落ちしてしまった加山ですが、元気を取り戻しての新たな活躍が望まれます

豊かな自然に恵まれた西伊豆・堂ヶ島。この地をこよなく愛する加山雄三。そんな彼の世界を余すところなくお見せする空間「加山雄三ミュージアム」。加山雄三のすべてを満喫していただけます。

加山雄三と弾厚作

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先の項で、加山雄三はシンガーソングライターであると述べましたが、主に作曲をして、歌詞はほぼ書きません。メディアのインタビューに答えて「詞を書くのが苦手」であると述べています。

そのため作詞は作詞家に発注していますが、「君といつまでも」、「夜空の星」「お嫁においで」「旅人よ」など、主なヒット曲は岩谷時子による作詞です。

本稿でもう少し後で取り上げる「海 その愛」の作詞も岩谷です。

加山は自作の曲を多く歌いますが、それらの曲の作曲家としてクレジットされるのは「弾厚作」です。これは加山の作曲家としてのペンネームであり、ピアノ奏者としての名でもあります。

加山雄三=弾厚作は歌謡曲だけでなく、3楽章からなるピアノ協奏曲「父に捧げるピアノコンチェルト」も作曲しています。

この曲はタイトルの通り、弾厚作が自身の父でかつて美貌の俳優として人気を博した上原謙のために作曲したものです。第1楽章の完成が1970年、第3楽章の完成が1985年という労作です。

また、日本テレビ系で毎年夏に放送される「24時間テレビ『愛は地球を救う』」のテーマ曲「サライ」を作曲したことでも弾厚作の名は知られています。

作詞家・岩谷時子

戦後日本を紡いだ作詞家

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日本の戦後歌謡史を紐解くなら、岩谷時子の名を語らずに済ませることはできません。岩谷時子が書く歌詞は昭和30年代から平成の半ばまでの間に生きた人々に、時代時代の思い出を残しています。

神戸女学院大学部英文科卒業後、宝塚歌劇団出版部で機関誌の編集に関わっていたことから、タカラジェンヌであった越路吹雪と出会い、1980年に越路が亡くなるまで越路のサポートをしていました。

越路の宝塚退団後は自身も宝塚を辞職し別の会社に就職して、その仕事をしながら越路を支えていました。越路が出演したシャンソンショーで歌われた「愛の讃歌」歌詞を日本語訳したのが岩谷でした。

「愛の讃歌」は岩谷がはじめて手掛けた「歌詞」でしたが、これが思いのほかヒットを記録。その後も越路が歌う曲の訳詞を続け、また作詞家としても大成していきます。

ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、布施明「これが青春だ」、出原千花子「ふしぎなメルモ」郷ひろみ「男の子女の子」……誰もが知る曲の歌詞を生み出しています。

訳詞もたくさんしていて、越路の「愛の讃歌」を筆頭に「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」などのシャンソン、「この胸のときめきを」「マイ・ウェイ」などの外国曲に日本語詞を与えています。

また、『王様と私』『ウエストサイド物語』『レ・ミゼラブル』などのミュージカルの日本語訳もしていて、岩谷時子のおかげで日本で演じられるようになったミュージカルは少なくありません。

そのうちの1作が『ミス・サイゴン』というミュージカルです。日本での初演は1992年。主演はダブルキャストで、そのうちの1人が歌手の本田美奈子.でした。

本田美奈子.との交流

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本田美奈子.は1985年デビューの歌手です。アイドル歌手としてデビューし、「Temptation」「1986年のマリリン」「One way Generation」などのヒット曲を残しています。

しかし、本田自身は「アイドル」であることを望んでいなかったらしく、デビュー前は演歌歌手としてのデビューを望んでいて、デビュー後はアイドルからバンドへと活動の軸足を移したこともありました。

デビュー後の路線変更は商業的にはうまく行かず、しばらくの間、歌手としては停滞していましたが、1990年、あるミュージカルと出会います。これが『ミス・サイゴン』です。

半年間にも渡る選考をくぐり抜け、本田は主人公キム役を獲得します。この作品を機に本田は『王様と私』、『レ・ミゼラブル』などの名作をはじめ、幾多のミュージカルに出演しました。

こうした経験によって本田美奈子.はミュージカル女優として目覚ましい成長を遂げます。またこうした経験や本田自身が新たに学んだことをもとに、音楽活動も新しい方向性を持ちはじめます。

本田の運命を変えた『ミス・サイゴン』はイギリス生まれのミュージカルです。これを日本語に訳したのが岩谷時子でした。これが縁となって、本田は岩谷をプロデューサーとしてアルバムを制作します。

聖歌、シャンソン、チャールストンなど、さまざまなジャンルを歌うアルバムは、歌が好きで歌手になった本田を輝かせました。本田はこの後さらに声楽曲を歌い、ますます歌手として成長していきます。

本田は40代になったらジャズを歌いたいと希望を述べていました。しかしこれは叶わず、2005年11月、急性骨髄性白血病により38歳で他界してしまいます。

亡くなる直前、本田が無菌室での治療に取り組んでいるときに、路上で転倒して脚を骨折した岩谷が同じ病院に入院しました。偶然のことです。

本田は無菌室から出られませんでしたが、病室で歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷に届け、励ましました。このとき最初に歌ったのが、岩谷が訳詞した「アメイジング・グレイス」だったのです。

本田は入院中、何度もこの歌を歌い、一時無菌室から出られるようになったときにはナースステーション前でも歌いました。ナースたちに歌をプレゼントし、自らも歌うよろこびを得ていたのでしょう。

岩谷とのやり取りを含む本田の闘病生活はドキュメンタリー番組としてテレビで放送されました。無菌室で歌った「アメイジング・グレイス」の音源もCMで使用され、さらには配信もされました。

こうして最晩年の本田美奈子.が歌う「アメイジング・グレイス」は大勢が知るところとなったのです。

このため、「アメイジング・グレイス」を本田美奈子.の歌と思う人も多いようです。おそらく、日本で一番知られた「アメイジング・グレイス」の歌唱でしょう。

岩谷時子の日本語詞及び翻訳家としての人生と、1人の夭折の歌姫との出会いによって、多くの人の心を動かす名曲・名唱が我が国に残されたのでした。

「海 その愛」

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捨て曲からタイトルトラックに

「海 その愛」が生まれたのは1976年。その頃、アルバム制作中の加山雄三は困っていました。アルバムに収録する曲が足りません。

仕方がなく一度は没にした曲――いわゆる「捨て曲」をいくつか候補に挙げて、そのうちの1曲を復活させました。

日本語の歌詞を書くことが苦手な加山は信頼する作詞家・岩谷時子に復活させた曲を託し、このように言いました。「壮大な海のイメージがあったらいいなぁ」

そして生まれたのが「海 その愛」という曲なのです。この曲はアルバムに収録され、アルバムのタイトルは「海 その愛」となりました。一度は捨てた曲がタイトルトラックになったのです。

曲の世界のシンデレラストーリーですね。

岩谷時子の歌詞を得て出世した「海 その愛」はその後、シングルカットされることもなかったというのに次第に人気曲となり、現在ではコンサートのラストを飾るに欠かせない曲となったのでした。

「海 その愛」がはじめて世に出たアルバム「海 その愛」でも、タイトルトラックはラストを締めくくる曲として収録されています。岩谷時子の歌詞がどれほどの仕上がりだったかが窺えます。

1.夜明けだ
2.ぼくの妹に
3.汐風の約束
4.ひとり渚で
5.ミセス・マーメイド
6.海賊ジャック
7.ねむれ大地よ
8.泣くがいい
9.愛の日々
10.海の上で
11.海 その愛

出典: 海 その愛/加山雄三